「雄略天皇」は西暦400年代の古墳時代の天皇ですが、日本ではその実在がほぼ確定している最古の天皇として有名です。その支配力は歴史にも名を残しているものの、暴君として紹介されることも多い人物です。「雄略天皇」の即位のいきさつをはじめ、古墳出土品からわかる功績や別名、その人物像について解説します。
「雄略天皇」とは?即位のいきさつ
「雄略天皇」は第21代天皇、西暦456~479年在位
「雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)」は第21代に数えられる天皇で、『日本書紀』によると在位は西暦456年~479年とされています。5世紀後半、古墳時代の天皇ということもあり、生没年ははっきりしていません。
「雄略天皇」は実在が確定している最古の天皇
「雄略天皇」は、その実在が考古学的にほぼ確定している、最古の天皇です。実は古代の天皇は時代が古いほど、その存在自体が疑われる例も少なくはなく、「雄略天皇」より前の天皇に関しては今なお不確実な点があるとされています。
兄「安康天皇」の崩御後に即位した
「雄略天皇」の父は第19代の「允恭天皇(いんぎょうてんのう)」で、「雄略天皇」は兄である「安康天皇」が崩御した後に即位しました。「雄略天皇」はこの即位に際し、「安康天皇」を暗殺した王とその王を保護した大臣を殺し、さらに他の皇位継承者も皆殺しにしたとされています。
「雄略天皇」の系図には「清寧天皇」が
「雄略天皇」の家系図では「清寧天皇(せいねいてんのう)」がいます。第22代の天皇で、「雄略天皇」の第三皇子です。
この「清寧天皇」は諱を「白髪(しらか)」といい、文字通り生まれつき髪が白く、それに霊異を感じた「雄略天皇」が皇太子にしたと言われています。
「雄略天皇」の崩御後、継体天皇即位まで朝廷は混乱
「雄略天皇」の崩御後即位したのは先述の「清寧天皇」ですが、その後しばらくは朝廷は混乱していたとみられています。「雄略天皇」が権力争いで多数の皇族や豪族を殺害したことがその大きな要因です。
さらに「清寧天皇」も在位が短い上にその実在を疑う声があること、その後も在位期間の短い天皇が続いたり妃や子がいない天皇が続いたりすることなどからも、朝廷の混乱が伺えます。なお、この混乱は6世紀初頭に「継体天皇」が即位するまで続いたとされます。
「雄略天皇」の別名
「倭の五王」のひとり「武」は「雄略天皇」
「雄略天皇」は中国の『宋書」などに記載される「倭の五王」のうちの「武(倭王武)」にあたる人物とみられています。5世紀の倭国王としては、讃・珍・済・興・武の5名の名が挙がっていますが、このうちの「武」は「雄略天皇」の可能性が高いとするのが定説です。
古墳出土の鉄剣銘の「ワカタケル大王」も「雄略天皇」
「雄略天皇」は別名「ワカタケル大王」とも呼ばれます。これは、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣銘に由来するもので、銘文にある「欺鬼(しき)宮」が「雄略天皇」が即位した宮廷があった場所であり、この鉄剣銘に刻まれた「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」は「雄略天皇」を指すと考えられています。
また、熊本県の江田船山古墳から出土した太刀銘にも、一部文字が判別できないものの「獲加多支鹵大王」を思わせる記載があり、これらは「雄略天皇」が実在したという根拠にもなっています。
なお、「ヤマトタケル」は「雄略天皇」とは別人です。「雄略天皇」の別名としては「ワカタケル(ワカタケル大王)」を覚えておきましょう。
「雄略天皇」は何をした人?
「雄略天皇」が大王による専制支配を確立した
「雄略天皇」は大王による支配体制を確立した見られる天皇です。「雄略天皇」の治世で、いわゆる中央集権体制が始まったとされています。「雄略天皇」は『日本書紀』や『万葉集』などに名前が掲げられるなど、それまでの天皇とは区別して描かれることが多いのも、多くの人にとって画期的な天皇だったからではないか、とみられています。
「雄略天皇」は埼玉から熊本まで広く支配
「雄略天皇」が専制支配を確立したと言われるのは、先述した古墳の出土品も根拠のひとつです。「ワカタケル大王」の存在を示す出土品が埼玉と熊本、遠く離れた両県から出ていることは、それだけ支配範囲が広かったことを表しています。このことからも、「雄略天皇」は国内の平定を進め大王として君臨したとみられています。
「雄略天皇」はどんな人?人物像とエピソード
「雄略天皇」多くの人を殺めた暴君
「雄略天皇」の即位のいきさつとしても紹介したように、「雄略天皇」は兄の暗殺を受け、その首謀者はもちろん皇位継承者を皆殺しにしたと言われています。ほかにも、気に入らないとすぐに処刑を命じたとする話や、反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せることで強力な君主として君臨していたなどというエピソードもあります。
政略結婚を繰り返したことでも知られる
「雄略天皇」は有力な皇族・豪族を制圧するとともに、政略結婚を繰り返したことでも有名です。その容赦のない様子から「大悪天皇(はなはだあしきてんのう)」と呼ばれました。このことからも政治に対する専制的な行為が伺えます。
和歌を集めた『万葉集』は「雄略天皇」の長歌ではじまる
政略結婚のやり方には強引なところもあったようですが、『万葉集』の冒頭では「雄略天皇」の求婚を思わせる長歌があります。この歌とはうららかな春の日に若菜を摘む女性に名を聞き、自らの名を告げる様子を詠んだもので、当時でいうと求婚を意味する歌です。
現代では“暴君”としてのエピソードが注目されがちですが、「雄略天皇」は『万葉集』が詠まれた7世紀後半の人々にとって魅力的な天皇であったのではないか、と推察されています。
まとめ
「雄略天皇」は古墳の出土品から「ワカタケル大王」、中国の『宋書』から「倭王武」の別名でも知られる天皇です。これらから「雄略天皇」は実在することがほぼ確定している最古の天皇とされています。また、埼玉の稲荷山古墳から熊本の江田船山古墳までと出土の範囲が幅広いことから、中央集権体制もうかがえます。一方で、武力でねじ伏せたというその暴君ぶりもしばしば話題に上る天皇で、「大悪天皇」とも呼ばれました。