「孝徳天皇」は飛鳥時代の天皇で、「大化の改新」の天皇としても知られています。「孝徳天皇」の即位から中大兄皇子との関係や「大化の改新」によって「孝徳天皇」は何をしたのか、その政治や治世について解説しましょう。また「孝徳天皇」の家系図や「孝徳天皇」の次の天皇についても触れています。
「孝徳天皇」の時代はいつ?
「孝徳天皇」は第36代、飛鳥時代の天皇
「孝徳天皇」は第36代天皇で、在位は645年(皇極天皇4年)~654年(白雉5年)、飛鳥時代の天皇のひとりです。飛鳥時代は日本初の女性天皇が誕生した時代で、先代の「皇極天皇」も女性でしたが、「孝徳天皇」は男性で即位前の名を「軽皇子」といいます。大化の改新の時の天皇として、その名に聞き覚えのある人も多いでしょう。
「孝徳天皇」は中大兄皇子の叔父
「孝徳天皇」の父は敏達天皇(第30代)の孫、母は欽明天皇(第29代)の孫です。また、「孝徳天皇」の治世で活躍した中大兄皇子は「孝徳天皇」の甥にあたります。
「孝徳天皇」の皇子「有間皇子」は謀反で死亡
「孝徳天皇」は皇后に「間人皇女」を、妃に「小足媛(安倍内麻呂の娘)」を迎えていましたが、そのうち小足媛との間に「有間皇子」が誕生します。しかしこの「有間皇子」はのちに天皇への謀反の疑いで処刑されています。
「孝徳天皇」の即位のいきさつ
「孝徳天皇」は皇極天皇の譲位により即位
先代、皇極天皇の治世は蘇我氏が全盛期と言われ、蘇我氏一族が莫大な権力を担っていたとされる時代です。ところが、645年中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、その翌日蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷は自害します。これが俗にいう乙巳の変(いっしのへん)で、大化の改新の始まりともなった出来事です。
この乙巳の変を受け、先代の「皇極天皇」は同母弟である軽皇子に譲位します。天皇が譲位したのは歴史上初めての出来事で、この譲位を受けた軽皇子は「孝徳天皇」として即位しました。当初、皇極天皇は中大兄皇子への譲位を望んだとする説があり、乙巳の変を引き起こした当事者が即位するのは表向き良くないとのことで、軽皇子への譲位となったとされています。
皇太子に中大兄皇子を迎え「大化の改新」を進める
「孝徳天皇」は即位すると、その皇太子には中大兄皇子が立ちました。併せて、元号を「大化」と改め「大化の改新」と呼ばれる数々の事業を進めます。
先述のように、中大兄皇子は皇位を譲った形ではあったものの、実際のところ、政治の実権は中大兄皇子にあったとされています。そのため、「孝徳天皇」自身は思い通りに政治が行えなかったという学説もあります。
「孝徳天皇」の治世・政治
「改新の詔」ですべての土地を天皇のものに
「孝徳天皇」は即位の翌年正月に「改新の詔」を出しました。この「改新の詔」では中国にならって、新しい制度を作ります。そのひとつが「公地公民制」です。端的にいうと、すべての人民と土地は天皇のものであるとする制度です。
ただし、実際には豪族などの持つ土地を完全に廃止とはいかず、私有地も多数残ったとされています。
「班田収授法」や「租・庸・調」を定める
「大化の改新」では「班田収授法」や新たな税制度「祖・庸・調」の制度も定められました。
「班田収授法」は中国の均田制にならった制度で、田を「口分田」として年齢や性別、身分などによって定められた分を分け与えました。さらに、新たな税制度では田で収穫した米を納めることを「租」とするほか、「庸(都で働くことで税を納める)」「調(布や特産物を納める)」といった税も定めています。こうして中央集権体制を強化したのです。
「左大臣」「右大臣」を新たに設置
「大化の改新」では、それまでの大臣・大連制が廃止され、新たに「内臣」「左大臣」「右大臣」がおかれました。まずは乙巳の変で活躍を示した中臣鎌足を「内臣」に起用したのを筆頭に、阿部内麻呂らが各地位についています。なお、「内臣」という地位は中臣鎌足に特別に用意されたポストともいわれています。
「難波長柄豊碕宮」に遷都、別名「難波朝」とも
「孝徳天皇」は、645年(大化元年)12月、都を飛鳥から摂津の「難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)」に遷都したことでも知られています。645年(大化元年)12月のことでした。
難波宮に宮廷があったことに由来し、「孝徳天皇」の治世は「難波朝」とも呼ばれます。
「孝徳天皇」の晩年と次代天皇
「孝徳天皇」と中大兄皇子の関係は悪化
大化の改新として様々な政策、事業が展開された「孝徳天皇」の治世ですが、実験を握っていたのは中大兄皇子でした。その実態が災いしたのか、「孝徳天皇」が同意しなかったにもかかわらず、上皇や皇后などを率いて、中大兄皇子は難波長柄豊碕宮から飛鳥に戻ります。ひとり難波に残された「孝徳天皇」は失意のまま退位を考え、離宮を作らせるまでになりますが、その完成を待たずして崩御してしまいます。
「孝徳天皇」の崩御後は斉明天皇が即位
「孝徳天皇」が崩御した後は、皇太子だった中大兄皇子が即位するかと思われましたが、天皇をひとり難波に取り残した事実は皇位簒奪を目論んだともとれることから、またもや中大兄皇子の即位は見送られます。ほかに皇位継承者が不在だったなどの理由で上皇だった「皇極天皇」が、「斉明天皇」の名で重祚(ちょうそ、一度退位した天皇がもう一度その地位につくこと)しました。これは歴史的にも初めての出来事です。
まとめ
「孝徳天皇」は飛鳥時代の第36代天皇です。「乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)」の後に即位し、「大化の改新」として様々な政策・事業をおこなった天皇です。しかし、政治の実権を握っていたのは皇太子だった中大兄皇子とする説が根強く、晩年はその中大兄皇子との仲が悪化して、難波に取り残されたまま亡くなったとされています。
「孝徳天皇」は歴史上はじめて譲位を受けて即位し、「孝徳天皇」亡き後は先代の「皇極天皇」がはじめて重祚し「斉明天皇」として即位するなど、異例尽くしだったことも特筆すべき点です。