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「舒明天皇」は何した?推古天皇との関係や子供・次の天皇も解説

飛鳥時代の天皇のひとり「舒明天皇」は、歴史的にも有名な中大兄皇子と大海人皇子の父であり、推古天皇の没後におこった後継者争いに勝ち残った人物でもあります。「舒明天皇」の時代と天皇の系図をはじめ、即位の経緯について紹介しましょう。「舒明天皇」の次の天皇についてもあわせて解説します。

「舒明天皇」とは?時代と系図

「舒明天皇」は第34代、飛鳥時代の天皇

「舒明天皇(じょめいてんのう)は飛鳥時代の天皇で、日本の第34代天皇にあたります。629年に即位、641年に崩御するまでおよそ12年の間天皇の地位にありました。

「舒明天皇」は即位前の名を田村皇子とし、父が敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)、母はその異母妹の糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)です。つまり田村皇子は両親ともに敏達天皇の子ということになります。

「舒明天皇」の子供には中大兄皇子や大海人皇子

「舒明天皇」は即位後に宝皇女を皇后とし、中大兄皇子と大海人皇子など5人の子供に恵まれます。中大兄皇子は後に天智天皇に、大海人皇子は後に天武天皇となる人物です。

舒明天皇陵は「押坂内陵」、奈良の段ノ塚古墳

「舒明天皇陵」は奈良県桜井市の段ノ塚古墳にある「押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)」です。宮内庁によると「押坂内陵」の形状は上円下方墳とされています。

「舒明天皇」の即位のいきさつ

「推古天皇」の没後、皇位継承争いがおこる

「舒明天皇」は推古天皇の次の天皇ですが、推古天皇が後継者を定めずに崩御したため、後継者問題が勃発します。そこで候補となったのが田村皇子と山背大兄王です。様々な思惑があった後継者争いですが、当時力を持っていた蘇我蝦夷が山背大兄王とは対立していたこともあり、蘇我氏が田村皇子側につく形で結果としては田村皇子の即位が決まります。

なお、田村皇子との皇位争いに敗れた山背大兄王は聖徳太子の子であり、天皇の有力候補とされた人物です。しかし、山背大兄王はこの後も蘇我氏に幾度も即位を妨げられ、最終的には一族ともに自害しています。

「舒明天皇」が即位、皇后に宝皇女

蘇我蝦夷に推された田村皇子は629年、「舒明天皇」として即位、日本の第34代天皇となります。即位翌年、舒明天皇は皇后に宝皇女を迎えます。この宝皇女は舒明天皇の姪にあたる人物で、後の天智・天武両天皇を産むのは先にも触れたとおりです。また、この宝皇女も後に天皇として即位するのですが、それについては後述します。

「舒明天皇」は何した人?

第一回遣唐使を派遣、百済・新羅とも関係を深めた

「舒明天皇」は第一回遣唐使を派遣したことで知られています。630年、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)と薬師恵日(くすしのえにち)らを唐(中国)に派遣しました。一行は唐の皇帝太宗と謁見、632年に唐の使者高表仁とともに帰国しています。またこの際新羅の送使も同行していることから、新羅を経由していたと推察されます。

なお、「遣唐使」の日本側の認識としては唐の国との対等な姿勢、対等な外交・交易でしたが、唐は当時の日本を「朝貢国」として扱っていたことがわかっています。このほか、舒明天皇は百済や新羅などとも関係を深めたとされています。

「舒明天皇」は蝦夷征討も行った

「舒明天皇」の治世である飛鳥時代は東北地方の「蝦夷征伐」が盛んな時代です。

637年におきた東北蝦夷の反乱では、上毛野君形名(かみつけのきみかたな)を将軍とし、「舒明天皇」は蝦夷の討伐に成功しました。この際大勢の人を捕虜としたとされています。

「舒明天皇」は万葉集の“国見歌”でも知られる

「舒明天皇」は日本最古の和歌集『万葉集』にもその名を残しています。『万葉集』に2番目に収録されている歌で、”国見の歌””国見歌”などとも呼ばれます。

この歌は大和でもっとも格式の高い山とされ、大和三山のひとつとされる天の香具山を題材とした歌で、「天香具山から大和国を見れば〜」と大和の国の素晴らしさを歌うものです。さらに、「大和の国が素晴らしい国になるように…」という願いを込めた歌ともされています。

「舒明天皇」の次の天皇は?

「舒明天皇」は百済宮でなくなる、49歳で崩御

「舒明天皇」は晩年、百済川畔に百済大宮と百済大寺の造営を命じています。亡くなる前年に百済宮に移り、そのまま百済宮で崩御しました。641年のことです。

「舒明天皇」の次は皇后が「皇極天皇」として即位

「舒明天皇」の崩御後はふたたび、後継者争いが勃発します。この時各人の思惑などが邪魔をし、すんなり後継者が決まらなかったことなどから、妻である宝皇女が即位することになりました。35代「皇極天皇」の誕生です。この「皇極天皇」の時代もまた、蘇我氏の力は衰えず蘇我蝦夷、入鹿らが政治を担いました。

まとめ

「舒明天皇」は推古天皇の次の天皇で、蘇我蝦夷らに推されて即位しました。「舒明天皇」の時代で特筆すべきは第一回遣唐使の派遣です。また、万葉集の2つ目の歌である通称”国見歌(国見の歌)”の作者としても「舒明天皇」は有名です。

「舒明天皇」が崩御した後、再び後継者が定まらず皇后だった宝皇女が「皇極天皇」として即位しました。国政は引き続き蘇我氏らが担う時代が続きます。