「四条天皇」とは?治世・時代の出来事とイタズラ好き故の死因

「四条天皇」は鎌倉時代の天皇です。現代に比べ当時は”大人”になる年齢が低かったことはよく知られていますが、歴代天皇の中でも「四条天皇」は幼くして即位した天皇です。「四条天皇」の即位のいきさつやその治世について、また「四条天皇」の思わぬ死因についても紹介しましょう。

「四条天皇」とは?即位のいきさつ

「四条天皇」は第87代、鎌倉時代の天皇

「四条天皇(しじょうてんのう)」は日本の第87代の天皇です。在位は1232年〜1242年、時代でいうと鎌倉時代に該当します。

「四条天皇」は「後堀河天皇」の第一皇子

「四条天皇」は後堀河天皇(ごほりかわてんのう)の第一皇子で、九条道家の娘であり中宮の九条竴子(くじょうしゅんし/よしこ)との間に生まれました。生まれは1231年、諱は秀仁(みつひと)といいます。

「四条天皇」はわずか2歳で即位

秀仁は生後数ヶ月で後堀河天皇の皇太子に立てられます。翌年の1232年10月、後堀河天皇の譲位により践祚(せんそ、天子の位を受け継ぐこと)、12月に即位し「四条天皇」となりました。このことからもわかるように、「四条天皇」はわずか2歳(数え年)で即位しています。

余談ですが、歴代天皇で最年少の即位となったのは六条天皇です。数え年2歳ですが、実際には生後7ヶ月での即位だったとされています。

「四条天皇」の治世とは?

当初は後堀河上皇が院政をおこなった

「四条天皇」はわずか2歳で即位したため政務がままならず、後堀河上皇(四条天皇の父)が院政を敷き、実際の政務にあたりました。しかし、即位の翌年である1233年には母が、1234年には父である後堀河上皇も崩御します。

上皇の崩御後は九条道家が政務を執る

後堀河上皇が崩御した後に政務をとったのは、外祖父にあたる九条道家(くじょうみちいえ)らでした。実権を掌握した九条道家と共に、その長男である教実(のりざね)が摂政となり政務にあたりましたが、教実が早世したことで道家は再び摂政となります。このようにして、九条家は朝廷で最大の有力者としての道を進んでいきます。

幕府の体制が強化、朝廷監視が強まった時期

「四条天皇」の時代は、幕府の体制が強化された時代でもあります。その代表例が六波羅探題(ろくはらたんだい)と御成敗式目(ごせいばいしきもく)の制定です。

六波羅探題とは承久の乱(1221年)以降に、鎌倉幕府が京都においた役職で、朝廷や公家の監視と尾張以西の行政、裁判などを司りました。御成敗式目ははじめての武家法で、武家社会の慣習や道徳、源頼朝以来の先例を元につくられたもので、1232年8月に施行されました。

「四条天皇」は何歳で崩御?その死因とは

「四条天皇」は12歳で崩御、死因はイタズラ?

「四条天皇」は幼くして即位しましたが、その在位は決して長くはありません。「四条天皇」は1242年、12歳という若さで崩御してしまうためです。

「四条天皇」は女房や側に仕える者たちを転ばせて楽しもうと撒いた滑石に、みずからがかかり転倒したことで崩御したとされています。この経緯から、「四条天皇」の死因は脳挫傷とも言われています。

「四条天皇陵」は京都泉涌寺の「月輪陵」

「四条天皇陵」は、宮内庁によって京都府の泉涌寺(せんにゅうじ)内にある「月輪陵(つきわのみささぎ)」と定められています。この「四条天皇陵」は石造九重塔で、父である後堀河天皇の「観音寺陵」も泉涌寺内にあります。

「四条天皇」の次代の天皇は?

「四条天皇」の次代は「後嵯峨天皇」

「四条天皇」は若くして崩御したため、子どもがおらず、後継者をめぐる争いが起きます。九条道家をはじめとした公卿は順徳天皇の皇子(忠成王)を推したものの、執権北条泰時は土御門天皇の皇子邦仁王を即位させます。第88代後嵯峨天皇(ごさがてんのう)の誕生です。

「四条天皇」の崩御後は11日間の空位期間が

「四条天皇」が崩御した後、次代の後嵯峨天皇が即位するまでには11日間の空位期間が存在することも特筆すべき点です。先述のように、九条道家がたてた候補を幕府側が拒否する形で半ば強引に後嵯峨天皇を即位させました。この紛争が11日間に及んだため、空位期間が存在するのです。

また、「四条天皇」の崩御によって承久の乱後の守貞親王(太上法皇として院政を行う)、後堀河天皇、四条天皇という系統が途絶え、結果として天皇の直系は後鳥羽上皇の血筋に戻ることになりました。後堀河天皇、四条天皇のいずれも早くになくなったことから、後鳥羽上皇による怨霊の仕業との噂もあったようです。

まとめ

「四条天皇」はわずか2歳で父から皇位を譲り受け、即位しました。実際に執政をおこなったのは父である後堀河上皇と外祖父である九条道家です。

「四条天皇」は12歳で崩御したため子どもがおらず、その後継者には公卿側が推薦した人物がいたものの、幕府側が半ば強引に後嵯峨天皇を即位させたことは幕府の力の強さを物語っているともいえるでしょう。