「光格天皇」の即位の経緯とは?尊号一件など出来事から人柄まで

江戸時代というと江戸幕府や第○代将軍といった話題に終始しがちですが、一方で民衆の救済のために尽力した天皇もいます。それが「光格天皇」です。「光格天皇」の即位の経緯や系図、「光格天皇」時代の出来事やその人柄について解説します。また「光格天皇」の次の天皇や皇位継承の経緯についても見ていきましょう。

「光格天皇」とは?時代と系図

「光格天皇」は第119代、江戸時代の天皇

「光格天皇」は日本の第119代の天皇です。在位は1780年(安永8年)から1817年(文化14年)、江戸時代にあたります。この時期の江戸幕府は第10代将軍徳川家治、第11代将軍徳川家斉です。

父は閑院宮典仁親王、母は大江磐代

「光格天皇」は諱を師仁(もろひと)、のち兼仁(ともひと)といい、御称号は祐宮(さちのみや)です。1771年、父閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけしんのう)、母大江磐代(おおえのいわしろ)のもとに生まれました。

後桃園天皇の崩御後、急遽養子となり即位

「光格天皇」は誕生後すぐに聖護院に入寺していて、その後継者として出家することが期待されていましたが、急遽流れが変わってきます。

安永8年、後桃園天皇(ごももぞのてんのう)が崩御した際皇子がいなかったことから、世襲親王家だった閑院宮から新帝を迎えることになります。後継者候補には複数の人物がいましたが、残された皇女である欣子内親王(よしこないしんのう)を新しく即位する帝の妃にするという考えから、九条尚実が祐宮を推し、急遽養子として迎えられることになったのです。

後桃園天皇の養子となった祐宮は9歳で即位、「光格天皇」となります。実は、養子となった際にはすでに後桃園天皇は崩御していましたが、空位となることを避けるために”危篤”として公表を遅らせたとされています。

「光格天皇」は何した人?

天明大飢饉では幕府に民衆救済を申し入れ

「光格天皇」は天明の大飢饉の際に幕府に民衆救済を申し入れたことで知られています。

天明7年(1787年)6月、数年来の大飢饉が起き米相場が高騰、京都市中でも餓死者が多く出る事態となりました。民衆は奉行所に対策を求めたものの反応がなかったため、次第に御所の周りから門へと賽銭を投げ込む「御所千度参り」が始まります。その数は何万人にも上ったそうです。

これを重く受け止めた「光格天皇」は幕府に対して民衆の救済を申し入れます。当時、「禁中並公家諸法度」によって朝廷から幕府への訴えは禁じられていましたが、事態のあまりの深刻さから法度違反も不問にされ、幕府からは米1500俵が放出されました。

新嘗祭など朝廷の神事を復興した

「光格天皇」はそれまで宮中の外で公家が代行する形で行われていた「新嘗祭」を御所内に神嘉殿を作り天皇が行うという本来の形に戻しました。このほか石清水八幡宮などへの行幸を復活するなどし、公卿からも歓迎される事態となります。

この背景には、朝廷で古来より行われてきた神事の中断・簡略化があります。戦国時代を経て幕府が力を持っていく中でやむを得ない流れだったようです。「光格天皇」以前にも、神事復活を試みた天皇はいましたが、いずれも“略式”となったものが多かったことを考えると、「光格天皇」による新嘗祭などの復興は大きな功績と言われています。幕末に向けた朝廷の権威復活の一端を担ったという評価もあります。

「尊号一件」とは父典仁親王の尊号をめぐる問題

「光格天皇」は出家が期待されていたことは先述の通りで、急きょ養子となり即位するに至ります。父の典仁親王は天皇ではなかったため、「光格天皇」は結果として父よりも上の位についたことになります。また摂関家との上下関係も、天皇の父が摂関家を”目上”として見なければならないというアンバランスな事態に陥ります。そこで「光格天皇」が典仁親王に太上天皇の「尊号」を贈ろうとしたのがいわゆる尊号一件(尊号事件)です。

結果として幕府の老中松平定信は尊号は認めなかったものの、典仁親王に1000石加増の対応をとったため、「光格天皇」と幕府との関係が崩れたわけではないとされています。なお、典仁親王は明治天皇の祖先となることから、1884年(明治17年)に太上天皇の称号が贈られています。

「光格天皇」はどんな人?

学問に熱心で博識多才な人物だった

「光格天皇」は9歳と幼い即位だったことに加え、傍系からの即位ということで天皇になるための教育を受けていませんでした。そのため、必死に勉学に励み天皇としてのあり方を模索したと伝えられています。

また直系ではないことから周囲には「光格天皇」を軽んじる雰囲気があった、とも言われていますが、理想の君主像を自分で模索するなかで強い皇統意識が生まれ、朝廷の権威復活に尽力する態度へとつながったと見られています。

身長が高く屈強な体つきだったとされる

学問に熱心だったことに加え、「光格天皇」は高身長で体つきも屈強だったとされます。これは「光格天皇」以後の天皇にも引き継がれているようで、孫にあたる孝明天皇も大柄だったと言われています。

「光格天皇」の次の天皇は?

「光格天皇」の次代は「仁孝天皇」

「光格天皇」は寛政6年(1794年)、欣子内親王を中宮とします。寛政12年(1800年)1月には欣子内親王との間に温仁親王が生まれますが、同年4月に亡くなります。そこで典侍である勧修寺媠子(かじゅうじ ただこ)との間に生まれた恵仁親王を文化6年(1809年)に皇太子とし、文化14年(1817年)に譲位「仁孝天皇」が誕生します。これを受け、「光格天皇」は太上天皇となりました。

「光格天皇」は傍系最後の天皇で、以後は直系子孫が継承

「仁孝天皇」は天皇の直系子孫であり、それ以後は天皇の直系の子孫によって皇位が継承されています。そのため、「光格天皇」は2022年8月現在、傍系最後の天皇と呼ばれます。

「光格天皇」は最後の太上天皇

「光格天皇」は譲位によって太上天皇となったことは先述の通りですが、「太上天皇」と呼ばれたのは歴史上「光格天皇」が最後です。「光格天皇」の譲位以後、平成31年(2019年)まで譲位が行われなかったこと、また第125代天皇明仁は太上天皇ではなく「上皇」の地位に在らせられるため「太上天皇」は「光格天皇」が最後ということになります。

まとめ

「光格天皇」は江戸時代の天皇のひとりで、閑院宮から養子となり、即位した天皇です。歴史的に見ると「光格天皇」は傍系から即位した最後の天皇であり、2022年現在、最後の「太上天皇」でもあります。

在位中の大きな功績では、天明の大飢饉における幕府への救済申し入れや新嘗祭などの神事の復興が挙げられるほか、勉強熱心で博識多才だったというエピソードも残っています。