「淳仁天皇」と孝謙天皇・藤原仲麻呂の関係は?即位から退位まで

「淳仁天皇」は別の名を「廃帝」または「淡路廃帝」と呼ばれます。このような名で呼ばれるのは、先代「孝謙天皇」と時の権力者であった「藤原仲麻呂(恵美押勝)」との関係が大きく影響しています。「淳仁天皇」の系譜、即位のいきさつをはじめ、退位に追い込まれ「廃帝」と呼ばれるに至るまでの経緯を紹介しましょう。

「淳仁天皇」とは?時代と系図

「淳仁天皇」は奈良時代、第47代天皇

「淳仁天皇(じゅんにんてんのう)」は日本の第47代天皇です。在位は758年~764年、時代でいうと奈良時代にあたり、女帝「孝謙天皇」からの譲位を受けて即位しました。

父は舎人親王、母は当麻山背で天武天皇の孫

「淳仁天皇」は天武天皇の皇子・舎人親王の第七皇子(息子)として誕生します。母は当麻山背です。「淳仁天皇」は天武天皇の孫ということになりますが、3歳の時に父が亡くなったことからその存在が注目されることは少なかったようです。

「淳仁天皇」は長らく「廃帝」と呼ばれた不遇の天皇

「淳仁天皇」という諡号は、実は明治になってから付けられたもので、長らくの間「廃帝」「淡路廃帝」と呼ばれてきました。これは、崩御や譲位ではなく、“廃位”され淡路へと流されたことに由来します。なぜ島流しされたのかについては後述しますが、諡号が贈られるまでの年月だけをとっても「不遇」と呼ばれるのもうなずけます。

「淳仁天皇」は何した人?即位のいきさつと政治

「孝謙天皇」から譲位をうけて即位

「淳仁天皇」は諱を「大炊(おおい)」といいます。756年に先代の聖武天皇がなくなると、その遺言として道祖王(荒田部親王の子)が立太子されますが、757年孝謙天皇は道祖王を廃し、光明皇太后(孝謙天皇の母)を後ろ盾とする藤原仲麻呂の強い推薦を受け「大炊王」を立太子します。この時の大炊王は、仲麻呂の私邸に住むなど深い結びつきを見せていたようです。

次いで758年、孝謙天皇の譲位を受け「淳仁天皇」が践祚、即位します。これを受け、孝謙天皇は「太上天皇(孝謙上皇)」となりました。

「淳仁天皇」ではなく実権は藤原仲麻呂に

第47代天皇として即位した「淳仁天皇」ですが、政治の実権は藤原仲麻呂にあったようです。仲麻呂は官職の名称などを中国の唐にならって変える政策(唐風政策)により、自らも「恵美押勝」と名乗るなど、次第に専横ぶりが目立つようになります。

「淳仁天皇」と藤原仲麻呂の乱とは

「淳仁天皇」が孝謙上皇と道鏡に進言したのがはじまり

藤原仲麻呂が実権を握った「淳仁天皇」の時代に陰りが見え始めるのは、光明皇太后の死と僧侶道鏡の登場がきっかけです。光明皇太后が亡くなり、藤原仲麻呂は強力な後ろ盾を失いました。これと並行し、孝謙上皇が自身の病を祈祷によって治してくれた僧侶道鏡を重用するようになります。このことを危惧した仲麻呂は、「淳仁天皇」を通じ孝謙上皇を諫めます。

この進言に激怒した孝謙上皇は、“今の帝は小事を、国家の大事は自分が行う”という旨の宣告を行います。これにより、天皇と上皇が対立する形となったのです。

「藤原仲麻呂の乱」に敗れ、「淳仁天皇」は廃位・島流しに

孝謙上皇の宣告に対し、藤原仲麻呂は軍事力を持って政治の主導権を取り戻そうと試みます。いわゆる「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)」です。しかし仲麻呂の動きは上皇側に筒抜けだったと言われていて、政権奪取は失敗に終わります。

「淳仁天皇」はこの戦いに加担しなかったとされるものの、上皇軍に包囲され「仲麻呂と関係が深かった」という理由で廃位を宣告されます。そしてその数日後、764年11月に淡路国(今の淡路島のあたり)へと島流しになったのです。

退位後には称徳天皇が即位、道鏡が法王に上り詰める

「淳仁天皇」が廃位とされた後には、孝謙上皇が重祚(再度即位すること)という形で「称徳天皇」が誕生します。「称徳天皇」の治世では、仏教中心の政治が行われたのが大きな特徴で、道鏡も「法王」の地位にまでのぼりつめ、政権を掌握していきました。

「淳仁天皇」の晩年

「淳仁天皇」の死因は病死、一説では暗殺とも

淡路に流された「淳仁天皇」ですが、先帝を慕い足しげく通う官人たちは多く、都でも「淳仁天皇」の復帰や重祚をはかる勢力が残っていたとされています。こうした先帝を巡る動向を危惧した称徳天皇は、765年、現地の警戒を強化するように命じます。そんな中、逃亡を図った「淳仁天皇」は拘束され、その翌日亡くなりました。

公式には病死とされる「淳仁天皇」の死因ですが、実際には捕らえられ暗殺されたともいわれています。葬礼などの記録も存在しません。

「淳仁天皇陵」は淡路陵

「淳仁天皇陵」は宮内庁によると、兵庫県南あわじ市の「淡路陵(あわじのみささぎ)」と定められています。また、廃位されたことから長らく「廃帝」や「淡路廃帝」と呼ばれ天皇の一人として認められなかったのですが、1870年(明治3年)に明治天皇から「淳仁天皇」という諡号を賜られました。また1873年(明治6年)には、同じく配流先でなくなった崇徳天皇を祀る白峯神宮(京都市)に合祀されています。

長浜市菅浦にも「淳仁天皇伝説」がある

兵庫県の淡路陵のほか、滋賀県長浜市菅浦の一帯にも「淳仁天皇伝説」があります。たとえば、「淳仁天皇」を御祭神とする須賀神社が良い例です。須賀神社はかつては淳仁天皇が隠棲とした「保良宮」が造営された地とされていて「保良神社」とも呼ばれたと伝えられています。

まとめ

「淳仁天皇」は第47代の天皇です。「淳仁天皇」が親政を行ったのではなく、政治の実権は藤原仲麻呂が担っていたとされています。その仲麻呂が起こした乱に巻き込まれる形で「淳仁天皇」は廃位され島流しになります。この歴史から「淳仁天皇」は長らく「廃帝」「淡路廃帝」と呼ばれてきました。

「淳仁天皇」という名は明治天皇によって贈られたもので、崩御から1000年ほど後のことでした。この歴史から「淳仁天皇」は不遇の天皇としても伝えられています。