「花山天皇」はどんな人?即位や退位の経緯と出家の理由も解説

「花山天皇」は平安時代の天皇で、しばしば藤原氏の権力争いに翻弄された人物として語られます。「花山天皇」の即位の経緯をはじめ、出家して退位するに至った理由について解説しましょう。また『大鏡』に残る「花山天皇の出家」についても触れています。

花山天皇の時代と家系図とは?

「花山天皇」は平安時代の第65代天皇

「花山天皇」は平安時代の天皇のひとりで、日本の第65代天皇に数えられます。在位は984年〜986年です。「花山天皇」と書いて、「かざんてんのう」あるいは「かさんてんのう」と読みます。

「花山天皇」は冷泉天皇の第一皇子

「花山天皇」は第63代冷泉天皇の第一皇子です。968年に生まれ、諱は師貞(もろさだ)といいます。母は、摂政太政大臣である藤原伊尹(これただ/これまさ)の娘、女御懐子です。

花山天皇の即位までのいきさつとは?

「師貞」は生後10か月足らずで皇太子となる

冷泉天皇の第一皇子・師貞は、円融天皇の即位に伴い、969年生後10ヶ月足らずで皇太子となりました。これには、摂政だった外祖父(母方の祖父)藤原伊尹の後ろ盾があり、伊尹の意向が大きくはたらいたとされています。

円融天皇からの譲位で即位し「花山天皇」に

師貞は円融天皇からの譲位を受け、984年即位し「花山天皇」となります。「花山天皇」が17歳の時でした。この時、「花山天皇」を皇太子に推した藤原伊尹はすでに亡くなっており、有力な外戚がいなかったことは「花山天皇」のその後の短い在位期間にも影響します。

花山天皇の人物像とは?

「花山天皇」の治世は藤原氏の権力争いで政治停滞

「花山天皇」の治世では、先代に引き続き関白を藤原頼忠がつとめましたが、政治の実権は藤原義懐と藤原惟成だったとされています。実権を握ったこの2人は荘園整理令の発布や貨幣流通の活性化、地方の行政改革など革新的な政治を行いました。しかし、こうした政策が関白頼忠らの反感を買い、双方の確執が強まります。

同じく、藤原氏の権力争いには、皇太子を即位させようと目論む藤原兼家らも加わります。三つ巴ともいえる対立により、政治そのものが停滞する要因となったようです。

「高御座に女官」「即位式で王冠を脱ぎ捨てる」などの逸話

「花山天皇」の人柄を表す言葉に「内劣りの外めでた」があります。わかりやすくいうと、表面(体裁)は立派だが中身が伴わない様を表す言葉です。

たとえば、高御座に女官を招き入れたという話をはじめ女性関係に派手だったという話は有名です。また、即位式で王冠が重いとして脱ぎ捨てる、壺庭で馬を乗り回そうとした、などといった逸話もあります。

「花山天皇」は芸術的な才能が豊かだった

その一方で「花山天皇」は才能が豊かな人としても名を残しています。絵画や建築、和歌など多岐にわたる才能は人々の意表をつくほどだったと言われ、芸術的な才能に恵まれた人だったことが伺えます。特に和歌に関しては『拾遺和歌集』を新撰した功績も知られています。

花山天皇の退位の理由とは?

「花山天皇」は亡き妻忯子の供養のために出家

「花山天皇」は即位後、藤原為光の娘である忯子を入内させます。「花山天皇」の寵愛を受けた忯子でしたが妊娠中に亡くなります。これにショックを受けた「花山天皇」は、出家して忯子の供養をしたいと主張しました。

政治の実権を担っていた藤原義懐・惟成らは説得を試みますが、986年、19歳の若さで「花山天皇」は出家します。これにより退位するに至ったのです。

出家は藤原兼家の陰謀「寛和の変」とする説も

この「花山天皇」の突然の出家に関しては、藤原兼家が、孫の懐仁親王を即位させるために企てた陰謀とする説があります。

兼家の三男、道兼は、忯子を亡くし悲しみに暮れる天皇に対し、自分も一緒に出家するといい、内裏から連れ出しました。この時天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」と一度は躊躇いますが、タイミングよく雲が月を隠したことに運命を感じ、道兼についていくことを決心します。途中、妻の手紙を取りに戻ろうとする天皇でしたが、先を急いだ道兼に止められ、そのまま内裏を後にします。

元慶寺に到着し、「花山天皇」が落飾したのを見届けた道兼はこっそりと抜け出し、自分は出家を免れます。ここではじめて「花山天皇」は欺かれたことを知ったのです。一方、義懐と惟成は天皇の元に駆けつけ、ともに出家するに至ります。この一連の事件は「寛和の変」とも呼ばれています。

「花山天皇の出家」は『大鏡』にも残っている

この「花山天皇」の出家に関するエピソードは紀伝体の歴史物語『大鏡』にも残っています。『大鏡」では「花山天皇」と道兼の一行が陰陽師の安倍晴明の屋敷の前を通った際に、天皇が退位することに気付いたという話も記載されています。

花山天皇の退位後に関する雑学

「花山天皇」の次の帝は「一条天皇」

「花山天皇」が出家に伴い譲位したことで、皇太子だった懐仁親王が「一条天皇」として即位します。数え年7歳での即位で、幼き天皇が誕生しました。摂政には「寛和の変」の首謀者ともされる「藤原道兼」がつきます。また、この譲位により「花山天皇」は太上天皇となりました。

出家後の花山上皇は比叡山延暦寺に上り法皇に

出家したのちの花山上皇は、圓教寺からやがて比叡山延暦寺に入り、法皇となり仏教修行に励みます。一方、従来からの女好きは健在といったところで、帰京したのちには東院の乳母の母子を同時に寵愛したというエピソードも残っています。

なお、花山上皇は晩年には藤原道長に敬重され、1008年に41歳で崩御しました。

まとめ

「花山天皇」は平安時代の天皇のひとりで、藤原氏の勢力争いに翻弄された人物といえるでしょう。生後10ヶ月で立太子され17歳という若さで即位するも、その在位が2年と短いのも時代に翻弄されたことの表れと見ることができます。

「花山天皇」は寵愛した忯子を亡くしたことをきっかけに出家するまでに至りましたが、一途な一面がある一方で女性関係を語るエピソードも多いです。