「正親町天皇」は大河ドラマに登場した際に話題になったこともある天皇のひとりで、安土桃山時代に信長・秀吉とも深い関わりを持った天皇として知られています。「正親町天皇」の即位からその治世、譲位まで紹介しましょう。また難読漢字でもある「正親町天皇」の読み方も解説します。
「正親町天皇」とは?系図と読み方
「正親町天皇(おおぎまちてんのう)」は戦国時代の天皇
「正親町天皇」は戦国時代・安土桃山時代の天皇で、日本の第106代天皇に数えられます。在位は1557年〜1586年です。「正親町天皇」の読みは独特で、「おおぎまちてんのう」と読みます。
「正親町天皇」は後奈良天皇の第一皇子
「正親町天皇」は後奈良天皇の第一皇子にあたります。母は藤原栄子、諱は方仁(みちひと)です。
後奈良天皇もまた戦国時代の天皇で、大変慈悲深い人物だったとして知られています。1540年に自ら、疾病終息を願って書いた般若心経の奥書には悲痛な胸の内を綴った自省の言葉を添えたことも有名です。
この後奈良天皇の崩御を受けて方仁親王が即位、「正親町天皇」となりました。
「正親町」は京都の地名に由来する
「正親町(おおぎまち)」とは平安京の「正親町小路」に由来し、現代でも京都市の中立売通は「正親町通」とも呼ばれています。律令制における役職「正親司(おおきみのつかさ)」の役所があったことにちなんだ地名です。
また、「正親町通」に由来する公家に「正親町家」もあります。藤原北家の公家で、明治時代には伯爵となった名家です。
「正親町天皇」の時代とは
「正親町天皇」の治世は公家が貧窮した時代
「正親町天皇」が即位した当時は、天皇や公家たちが貧窮した時代です。応仁の乱以降の戦国の乱世の余波を受け、さまざまな儀式が行えない・資金が集められないなどといった財政難が続いていました。「正親町天皇」の即位礼が即位から数年後となったのも、この朝廷の貧窮ぶりに起因します。
なお、「正親町天皇」の即位礼は安芸国の戦国大名毛利元就からの献納により、翌1560年にようやく実現します。
「正親町天皇」には本願寺からも献金が
「正親町天皇」への献金は戦国大名だけではありません。本願寺の法主・顕如も莫大な献金を行ったことで知られています。これにより、天皇から門跡の称号を与えられ、本願寺の権勢が増します。その一例として、1565年にはキリスト教宣教師の京都追放が命じられました。
「正親町天皇」と織田信長・豊臣秀吉
織田信長が朝廷の財政立て直しに関わる
「正親町天皇」を語る上で欠かせないのが織田信長です。織田信長は1568年、「正親町天皇」を保護するという名目で京都を制圧、朝廷の財政立て直しに尽力しました。
献金・献上品のほか、朝廷の祭儀復興にも影響したことで知られていて、これにより御所が修繕されたり伊勢神宮の式年遷宮が再開されたりと朝廷は再興していきます。これに対し「正親町天皇」は、朝倉義景・浅井長政との戦いをはじめとした信長の敵対勢力に対して講和の勅令を出すなどして信長の天下統一に貢献、互いに支えあう関係を築きます。
信長が譲位を迫ったとする説も
「正親町天皇」と織田信長に関するエピソードは多く、たとえば信長には持ち出し不可とされていた蘭奢待(らんじゃたい)の切り取りを許可したという話も有名です。また、1577年には、信長に右大臣を宣下しています。これは武家が任じられる最高位であり、これを受けて信長は安土城を築きます。
一方で信長が「正親町天皇」を疎ましく思い、譲位を要求するようになったという説もあります。信長は誠仁親王に譲位させることで朝廷の権威をより利用しやすいものにしようとした、とも言われています。ただしこれには諸説あり、信長が「正親町天皇」の譲位を拒んだ、とする真逆の説も存在します。
「正親町天皇」は本能寺の変に関わった?
織田信長は明智光秀に討たれ本能寺の変で亡くなります。この本能寺の変に朝廷が関わっていたとする説がありますが、これは上記の「正親町天皇」の譲位問題に起因します。
信長に不信感を抱いた「正親町天皇」が明智光秀を使って信長を討ったとする説です。ただしこれには明確な根拠があるわけではなく、譲位問題同様にまだ議論の中にあります。
豊臣秀吉も「正親町天皇」を支えたひとり
織田信長亡き後、豊臣秀吉(羽柴秀吉)が明智光秀を討ち、後継者としての地位を確立しました。この際、「正親町天皇」は秀吉にいち早く目をつけます。秀吉は政権を握った後も朝廷への感謝の気持ちとして御料地などを献上、「正親町天皇」はその後ろ盾となることで皇室としての権威を高めていきます。
豊臣秀吉も最終的に関白の地位を授かり、秀吉は豪華な献上品と共に参内する関係が続きます。この武家による参内は朝廷の財政を豊かにしました。
「正親町天皇」の次の天皇とは
「正親町天皇」は孫に譲位、後陽成天皇が即位
「正親町天皇」は1586年、孫の和仁親王に譲位します。これを受け「後陽成天皇」が誕生します。
「正親町天皇」は秀吉との関係を深め、秀吉も朝廷に感謝の意を表し院御所の造営を申し出ます。これにより「正親町天皇」の譲位が実現したのです。
「正親町天皇」の譲位で約120年ぶりに上皇が誕生
「正親町天皇」が即位した当時の朝廷は貧窮を極めていたことは先述の通りですが、朝廷にお金がないということは上皇の御所が造営できず、そのために長い間「天皇が譲位し上皇になる」ことが叶わず、天皇のまま崩御する時代が続いていました。つまり「正親町天皇」の譲位は朝廷の再興をも意味するのです。
この「正親町天皇」の譲位は第102代「後花園天皇」以降はじめてで、およそ120年ぶりのことでした。
まとめ
「正親町天皇(おおぎまちてんのう)」は戦国時代・安土桃山時代の天皇のひとりで、朝廷の財政を立て直した天皇として知られています。特に織田信長と豊臣秀吉との関係は有名で、献上に伴い武士として最高の官位を与えるなどして関係を深めていきました。その結果、秀吉からの院御所造営の申し出によって、長らく実現していなかった譲位がかなったとされています。