「大正天皇」はどんな人?生い立ちや性格・大正時代の出来事も紹介

日本の第123代天皇にあたる「大正天皇」は、病弱で在位期間が14年と短かったこともあり、業績やエピソードについてはあまり多くのものが残されていません。そこでこの記事では大正天皇の生い立ちから即位について説明するとともに、大正天皇の知られざるユニークなエピソードや大正時代の主な出来事についても紹介します。

「大正天皇」とは?生い立ちから即位まで

明治天皇の3男として誕生

大正天皇は1879年(明治12年)8月31日に、東京・青山御所で明治天皇の第三皇子として誕生しました。生母は柳原愛子(なるこ)です。大正天皇は名を嘉仁(よしひと)といい、幼少の時の称号は明宮(はるのみや)です。明治天皇は2人の正室と5人の側室との間に5男10女の子をもうけましたが、長男と次男は成人する前に亡くなり、大正天皇は唯一成人した皇男子にあたります。

小さいころから体が弱かった

大正天皇は生まれてすぐに髄膜炎と皮膚炎を患い、さらに幼年期には百日咳や腸チフスに罹患するなど大変体が弱く、幾度も病気を患いました。小学校へ入学しても体調が優れない日が続き、小学2年のときには留年の末中途退学します。

その後は直属の教育係がつけられ、国学や漢文、フランス語といった学習が行われますが、あまりも詰め込んだ教育の結果、体調はさらに悪化してしまいました。

後に有栖川宮威仁親王が教育係となり、詰め込みの学習よりも健康を優先するよう転換させたことで状況は改善しました。

1912年に即位するが47歳の若さで崩御

1912年(明治45年)7月29日、父の明治天皇が崩御しました。これに伴い、大正天皇は翌日から第123代天皇に即位。在位期間は1912年から1926年までの14年間で、この時代を大正時代と呼びます。大正天皇は幼少期から体が弱かったため、即位後は公務の忙しさや負担の重さで体調を崩すことが増え、1921年(大正10年)には息子である皇太子裕仁殿下が摂政に任じられました。

1925年(大正14年)には46歳で重度の脳貧血を発症。寝たきりの状態になってしまい、1926年(大正15年)47歳という若さで崩御されました。

「大正天皇」の時代の出来事は?

 

「第一次世界大戦」が勃発(1914年)

1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発しました。開戦のきっかけは、セルビアの青年によりオーストリア皇太子夫妻が暗殺された事件です(通称サラエボ事件)。その後オーストリアがセルビアに宣戦布告を行うと、周辺の国が参戦。ロシア・イギリス・フランスなどの連合国とドイツ・オーストリアなどの同盟国に分かれて戦争に至りました。日本はイギリスと同盟を結んでいたことから連合国側につくこととなり、ドイツに宣戦布告。ドイツの植民地であった青島(中国)に攻めこむなどして参戦しました。

4年以上におよぶ戦争は連合国が勝利し、日本も戦勝国に名を連ねることとなります。

「関東大震災」(1923年)

1923年(大正12年)9月1日、関東地方南部を中心とした「関東大震災」が発生しました。震源地は相模湾北部、地震の規模はM7.9、最大震度は7でした。発生時が昼食の時間帯と重なっていたことから調理のために火を使っていた家庭が多く、建物の倒壊により多くの火災が発生しました。一部では大規模な火災となり、46時間も延焼が続いたといいます。

震災の被害は東京を中心に関東の広域に及び、死者9万1,344人、行方不明者は1万3,275人にもなりました。

現在では9月1日は「防災の日」と定められており、防災への心構えを行う日とされています。

「普通選挙」の実現(1925年)

1925年(大正14年)5月5日、普通選挙法が公布されました。それまでは納税額によって選挙権が定められていましたが、普通選挙法では納税要件が撤廃され、”日本国籍を持ち、かつ内地に居住する満25歳以上の全ての成年男子”に選挙権が与えられることとなりました。

ただし、女性に対しては依然として選挙権が認められていませんでした。選挙権を与えられなかった女性達は、平塚らいてうや市川房枝を中心として婦人参政権の獲得を目指し運動を行いますが、女性の参政権は長く認められずにいました。全ての成人男女による完全普通選挙が行われるようになったのは、第二次世界大戦後GHQの占領下におかれた1945年(昭和20年)になってからのことです。

「大正天皇」はどんな性格だった?趣味は?

気さくな性格で自由奔放

大正天皇は、前後に並ぶ明治天皇・昭和天皇と比べて最も気さくで人間的であったといわれています。当時、天皇は「神」に値する存在とみなされていましたが、大正天皇は皇太子の時代からかなり気さくに行動されていました。たとえば、自転車に乗ることが好きだったことから、梅林を見にお寺へ出かけたり旧家を訪ねておしゃべりをしながらお茶を飲んだりと、自由気ままに過ごされていたというエピソードが残っています。

さらに、立ち寄った家でお茶漬けを勧められたり、陸軍の演習に参加しているときに友達の家を訪れたりと、かなり自由奔放。庶民の食事処であるお蕎麦屋さんに入ることもあったといいます。

趣味は「漢詩の創作」

大正天皇は漢詩の創作を好まれ、17歳の頃から生涯の間に1367首もの漢詩を作られました。この数は歴代天皇の中でも際立って多いものです。漢詩の内容は公務にまつわるものから日常や家庭での様子をうたったものなど、様々な題材のものがあります。

漢詩の専門家によれば創作のセンスはかなり優れているといいます。

「大正天皇」ゆかりの地は?

「塩原御用邸」(栃木県那須塩原市)

栃木県那須塩原市にある「塩原御用邸」は、大正天皇が避暑地として訪れていた地です。もともとは明治時代に建築された別荘が前身となっています。1902年(明治35年)、皇太子であった大正天皇が初めて塩原温泉を訪れた際、非常に塩原を気に入られたことから皇室に献上されました。

塩原御用邸では大正天皇が避暑地として過ごされたほか、他の皇族たちもよく利用していました。現在では「旧塩原御用邸新座御所」が移築され「天皇の間記念公園」として現存しており、一般公開されています。

「武蔵陵墓地」(東京都八王子市)

東京都八王子市にある「武蔵陵墓地」は、大正天皇夫妻と昭和天皇夫妻の陵墓地です。最寄り駅の高尾駅から武蔵陵墓地までの間には美しいイチョウ並木があり、美しい並木道の眺めを楽しめます。またその先へと進むと桜並木やケヤキ並木が続き、静謐で心落ち着く空間が広がっているのが特徴的です。

大正天皇の陵墓地は「多摩陵(たまのみさぎ)」とよばれ、上部は円形、下部が方形の上円下方墳です。

まとめ

大正天皇は明治天皇の崩御後即位しましたが、幼少期から病弱な体質であったため体調を崩すことが増え、47歳という若さで崩御されました。大正時代は15年と短い期間のため、天皇にまつわるエピソードや話題が少ないものの、人柄や趣味などの興味深いエピソードがいくつか残されています。