「フレスコ」で描かれた中世ヨーロッパの壁画には、美術史上の傑作が多く伝わっています。フレスコやフレスコ画とはどのようなものなのでしょうか?
この記事では、フレスコの描き方や、代表的なフレスコ画の作品と画家について紹介します。美術鑑賞の基礎知識としてお役に立てば幸いです。
「フレスコ画(イタリア語・英語:fresco)」とは?
「フレスコ画」とは”フレスコ”技法で描かれた壁画のこと
「フレスコ画」とは、”フレスコ”という技法で描かれた壁画や絵画のことです。フレスコは、古代ギリシャ時代から、主に壁画に使われた絵画技法で、とくに中世ヨーロッパで盛んに用いられました。
最も有名はフレスコ画は、ミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂の壁画だといえます。作品についてはのちほど解説します。
「フレスコ」とは漆喰に水性絵の具を染み込ませる描き方
フレスコの描き方は、漆喰(しっくい)を壁などの下地に塗り、それが乾かないうちに水に溶かした水性絵の具で絵を描いて染み込ませます。フレスコとは「新鮮な」という意味です。
漆喰が乾く過程の化学反応によって表面が透明な膜で覆われます。定着に糊を必要としないことからも堅牢になり、保存に優れます。
そのような堅牢さに加えて水性顔料で描くことによって透明感のある明るい発色が得られることもフレスコの優れた点です。
「フレスコ」のデメリットは塗りの難しさ
デメリットとしては、漆喰が乾ききらないうちに色を塗らなければならないことと、上から塗りなおしができないことです。そのため事前に入念な準備が必要とされます。万が一失敗した場合は、漆喰をはがして最初からやり直すことになります。
「フレスコ画」の代表作品とは?
ポンペイから発掘された古代のフレスコ画と、中世フレスコ画の代表作品を紹介します。
火山灰に埋もれたことで保存された「ポンペイの壁画」
ポンペイの壁画
(出典:Adobe Stock)
1世紀のフレスコ画を伝えるものが「ポンペイの壁画」です。ポンペイとは、79年に起こったヴェスヴィオ火山の噴火による火山灰により、地中に埋もれたイタリア・ナポリ近郊の古代都市の名前です。18世紀から発掘が開始されると、火山が噴火した当時の生活の様子をそのまま残した邸宅などが次々に発見され、多数の壁画も発掘されました。
ポンペイの壁画は年代によって様式の変遷が見られ、モチーフは神話や風俗、静物など多岐にわたり、鮮やかな色彩が良い状態で残っています。火山灰で覆われたことから、劣化を食い止めることができたためで、ポンペイの壁画は古代ローマの絵画や、当時の風俗を知る上で重要な資料ともなっています。
ジョットの代表作『スクロヴェーニ礼拝堂装飾絵画』
『スクロヴェーニ礼拝堂装飾絵画』の一部分
(出典:Adobe Stock)
イタリア・ルネサンス前夜を代表するジョット・ディ・ボンドーネ(1267年頃~1337年)は、絵画に初めて感情を吹き込んだ画家です。とくに14世紀初頭に描かれた、パドヴァにあるスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画画が傑作だとされます。
聖書の諸場面が各壁に描かれ、そこに登場する人物は、それまでの絵画には見られなかった人間的で自然なしぐさや表情で描かれています。
ミケランジェロの傑作『システィーナ礼拝堂天井画』と『最後の審判』
システィーナ礼拝堂内部
(出典:Adobe Stock)
ミケランジェロ・ブオナローティ(1475年~1564年)の傑作である、バチカンの『システィーナ礼拝堂天井画』と、システィーナ礼拝堂の祭壇側面に描かれた『最後の晩餐』は、フレスコで描かれました。
『システィーナ礼拝堂天井画』(1508年~1512年)は、4年の年月を費やしてミケランジェロがほぼ一人で描き上げました。1000平方メートル近くの面積を、上を見上げる姿勢をとりながら長い時間をかけてフレスコで描き上げるという作業は、とてつもなく困難であったはずです。
『最後の審判(1535年~1541年)』は、天井画の完成から約20年後に6年をかけてフレスコで描かれました。キリストによって天国と地獄に振り分けられる400体の人間が裸体で描かれ、その迫力は他に類をみません。
日本テレビが支援した1981年~1994年の修復では、汚れを取り除くとともに、のちに加筆された腰布も一部を除いて元どおりに復元されました。
哲学者が描かれたラファエロの代表作『アテナイの学堂』
『アテナイの学堂』バチカン宮殿
(出典:Wikimedia Commons User:Kallinikov)
ルネサンス期にミケランジェロとともに活躍した、ラファエロ・サンティ(1483年~1520年)の代表作であるフレスコ画が『アテナイの学堂』(1509年~1510年)です。有名な古代ギリシャの哲学者たちが描かれており、人物が特定されているのは中央の二人で、向かって左がプラトンで、右がアリストテレスです。
ラファエロと同時代に生きた人物がモデルになって描かれており、プラトンはレオナルド・ダ・ヴィンチの姿で描かれています。左前面で肘をついた人物は一説ではヘラクレイトスとされ、ミケランジェロの姿で描かれています。
「テンペラ画」の『最後の晩餐』とフレスコとの関係とは?
『最後の晩餐』は、フレスコではなく、テンペラで描かれた壁画ですが、その修復の歴史においてフレスコと間違えられたことがあるので、ここで紹介します。
「フレスコ画」と間違えられて修復に失敗したこともある『最後の晩餐』
『最後の晩餐』サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院
(出典:Adobe Stock)
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)によって、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画として描かれた『最後の晩餐』は、1498年に完成しました。しかし1517年には、すでに破損が始まっていたとの記録が残っています。
『最後の晩餐』は、本来ならフレスコで描かれるべきところを、漆喰の上にテンペラで描かれていたため、漆喰とともに絵が剥がれ落ちたり、カビが生えたりしてしまいました。幾度となく修復が試みられましたが、フレスコ画だと間違えられて不適切な処置がされることもありました。
1977年~1999年の大規模な修復において、あとから加筆された部分を除くなど、レオナルドが描いたフレスコ画に近づける科学的な修復が行われ、現在の姿になっています。
レオナルドは、乾いたあとは書き直すことができず、また計画的に進めなければならないフレスコを嫌い、新しい壁画の技法の試みとして、油と卵を混ぜた油性テンペラという技法を用いて傑作を仕上げたのですが、保存という観点からすると、難しい手法だったのです。
「フレスコ画」とともに”テンペラ画・モザイク画”も中世の主な技法
フレスコとともに、「テンペラ」と「モザイク」も中世ヨーロッパで用いられた絵画技法です。
テンペラ技法とは
テンペラ技法で描かれた絵画をテンペラ画といい、テンペラとは、顔料を卵や膠(にかわ)などで混ぜ合わせた絵の具を用いる絵画技法のことです。支持体は、中世では木の板が用いられ、祭壇画などが作られました。写本の挿絵もテンペラが用いられました。テンペラは5世紀頃からルネサンス初期頃までによく用いられました。
モザイク技法とは
モザイク技法で作られた絵画をモザイク画といい、モザイクは、さまざまな色合いの石やガラスの小片を、壁などに塗った漆喰に埋め込んで制作します。フレスコとともに、古代ギリシャ時代から用いられ、古代ローマ時代には邸宅の床や壁に多用されました。中世ヨーロッパでは聖堂の装飾などに用いられました。
まとめ
フレスコ技法は、下地として塗った漆喰が乾かないうちに、水で溶いた顔料をのせなければならないため、熟練の技術が求められます。適切な技術によって制作されると、長い年月に耐えるほど堅牢になります。
中世ヨーロッパで多く壁画として描かれたフレスコ画は、500年以上の時を経てもその輝きを失っていません。それらを完璧に仕上げた芸術家たちの技術の高さは、作品の芸術度の高さとともに、まさに神業であるといえます。
■参考記事
「テンペラ」とは何か?ムンクの『叫び』などのテンペラ画も紹介