「バスコダガマ」は何した人?インド航路開拓の経緯とその功績

「バスコ・ダ・ガマ(ヴァスコ・ダ・ガマ)」は、「インド航路」を開拓した人物として知られています。彼の新航路発見によって、ヨーロッパに香辛料が伝わるなど様々な改革がもたらされました。「バスコ・ダ・ガマ」の功績について、紹介します。

「バスコ・ダ・ガマ」とは何をした人か?

「バスコ・ダ・ガマ」とはインド航路を開拓した人

「バスコ・ダ・ガマ(ヴァスコ・ダ・ガマ、Vasco da Gama)」とは、ポルトガルの航海者・探検者で、ヨーロッパからアフリカを経てインドへ渡った最初のヨーロッパ人です。彼が発見した航路は、一般に「インド航路」と呼ばれ、ポルトガルが大きく成長するきっかけともなりました。

バスコ・ダ・ガマの生涯

出生年については記録があいまいで1460年頃とされていますが、1469年という説もあるようです。没年は1524年で、病死とされています。

港町に生まれ育ったこと、それから若い時期から宮廷に仕えていたことで、教育を受ける機会や航海に関する知識を得ていたようです。

「ヴァスコ・ダ・ガマ」の航海の背景には王室の財政難があった

航海者・探検者というと、未開の地に自ら踏み込む探求心や好奇心を思い起こさせますが、バスコ・ダ・ガマが航海に乗り出したのは、王室からの指示によるものでした。

当時、ヨーロッパ諸国では、外国との対立から財政難を抱えていて、ポルトガルもまた、例外ではありませんでした。その財政立て直しのために注目されたのが、香辛料や金などの資源を豊富に持つインディアス(スペインが征服した現在の西インド諸島やフィリピン諸島)との直接貿易です。

インディアスとの直接貿易が必要だった理由

肉を好むヨーロッパの食文化では、香辛料は重宝されましたが、一方で直接貿易ができずにイスラムの商人から高い値段で売り付けられるという不都合が生じていました。直接貿易が叶えば、より安価な値段での購入が期待できます。こうした政治的・経済的な背景により、バスコ・ダ・ガマが航路開拓に派遣されたのです。

「バスコ・ダ・ガマ」のインド航路とは?

バスコ・ダ・ガマが発見したインド航路とは、どういった航路なのでしょう。航路の詳細と発見までの経緯についてみていきます。

アフリカ最南端「喜望峰」を経由したインド航路

通称「インド航路」と呼ばれるバスコ・ダ・ガマの航路は、ポルトガルのリスボンからアフリカ最南端の「喜望峰(きぼうほう)」を経て、インドのカリカットまでの航路を指します。バスコ・ダ・ガマは、1497年7月にリスボンを出発、翌年5月にカリカットに到着しています。

なお、アフリカ大陸の最南端である「喜望峰」は、同じポルトガル人の航海者「バルトロメウ・ディアス」が先に到達していました。

先のコロンブスの航海によってルートが限定された

バスコ・ダ・ガマのインド航路がアフリカ経由なのには、コロンブスの「西回り航路」の開拓も影響しています。

バスコ・ダ・ガマがインド航路開拓に発つ前に、1492年にコロンブスがスペインからの援助を受けて、「西回り航路」でインディアスに到達しています(※ただし、実際にコロンブスが発見したのはインディアスではなく、アメリカ大陸でした)。先に、コロンブスがアジアへの航路を開拓したとされていたため、バスコ・ダ・ガマの航路は事実上アフリカ沿岸を経由するルートに限定されてたようです。

また、コロンブスは、当初、航路開拓に向けてポルトガルに援助を断られたのちに、スペインからの援助を受けて航路を開拓しています。このことから、ポルトガル勢はコロンブスと同じルートを避け、アフリカルートに限定したとも言われています。

バスコ・ダ・ガマのインド航路は帝国の基礎に

第一回航海時には様々なトラブルがあったものの、「インド航路」をもとに、ポルトガルはインドや東アジアで確固たる地位を築くとともに、ポルトガルの貿易の基礎として発展していきます。

インドと関係を構築するまでの苦労

インドに到着したバスコ・ダ・ガマは、現地でスムーズに受け入れられたわけではありません。得体の知れない航海者たちは、現地の人々にとっては脅威でもあり、突然襲われることもあったようです。また、一方の、バスコ・ダ・ガマ達も、案内や交渉のために、現地の人を人質にとるようなことも行っていました。

加えて、バスコ・ダ・ガマ一行が持参した王への献上品も、ポルトガルの財政難を象徴するかのような貧相なものだったこと、現地の風習に反して、上陸時に船内に乗組員を残していたことなどから、「海賊では?」と疑問視する声もあったようです。

バスコダガマと同じ大航海時代の航海者とは?

15世紀~17世紀にかけては、バスコ・ダ・ガマをはじめとしたヨーロッパの航海者が、新航路開拓・新大陸発見に沸いた「大航海時代」と呼ばれる時代です。この時期に活躍した航海者として、コロンブスとマゼランを紹介します。

西回りで大西洋を横断したコロンブス

コロンブスは、スペインから西回りに航海し、アメリカ大陸を発見した人物です。ただし、コロンブスが発見した地が「アメリカ大陸」と分かったのは彼の死後で、コロンブス自身は、自らが発見したのはインドをはじめとしたアジア大陸だと誤った認識を持っていました。

当時アメリカはまだ未発見の地であり、「大西洋を西に進めば必ずアジアに到達する」という考えが成立していたからです。

コロンブスが西回り航路で開拓した新大陸は、時を経て、1507年にアメリゴ=ヴェスプッチ(ポルトガルの航海者)によって「アメリカ大陸」と呼ばれるようになります。しかし、最初に発見したのは「コロンブス」とする史実を支持する声が多かったことから、アメリカ大陸を「コロンビア」と読んだり、ワシントンDC(Washingon District of Columbia )のように、コロンブスにちなんだネーミングも残っています。

西回りで世界一周したマゼラン

大航海時代を語る上では、ポルトガル人の航海者「マゼラン」も欠かせません。

マゼランは、1519年~1522年にかけてスペインから西に進み、南米大陸南端の「マゼラン海峡(南米大陸とフェゴ島の間に海峡)」を発見、ヨーロッパでははじめて太平洋を横断した人物です。マゼランは、太平洋の西端の諸島「フィリピン」を発見した際、セブ島をめぐり、その王を改宗させようとしたことに端を発する争いで戦死します。

しかし、マゼラン亡き後も一行は航海を続け、スペインに戻り、世界一周を成し遂げています。

まとめ

バスコ・ダ・ガマは、ポルトガルからアフリカの最南端「喜望峰」を通りインドに到達する「インド航路」を開拓した人物です。航海者というと野心にあふれる気合を感じますが、バスコ・ダ・ガマは、当時の財政難から貿易のために航海を任ぜられた一人です。結果としてその後の貿易に大きな功績を残し、大航海時代を代表するひとりとなりました。