「ロートレック」の生涯と作品とは?リトグラフのポスターも紹介

「ロートレック」といえば、19世紀末のパリのキャバレー「ムーラン・ルージュ」を描いたポスターが有名です。ロートレックはどのような背景から作品を生み出したのでしょうか?この記事では、ロートレックとその生涯について紹介し、絵画やポスターの特徴と代表作品を解説します。

「ロートレック」とは?

ロートレック 1894年の肖像
(出典:Wikimedia Commons)

「ロートレック」とは19世紀後半のフランスを代表する画家

トゥールーズ=ロートレック=モンファ( Toulouse-Lautrec-Monfa、1864年~1901年)とは、19世紀後半のパリで活躍したフランスの画家です。

石版(リトグラフ)画家やポスターアーティストとして知られていますが、600点余りの油彩画も制作しています。ロートレックは人物の内面を的確につかみとる人間性豊かな芸術家として高く評価されています。

名門貴族の家に生まれたが社会の底辺に共感を寄せた

ロートレックはフランスの名門貴族の家に生まれましたが、そこに居場所をみつけられず、社会の底辺に生きる人々に共感を寄せました。パリの歓楽街モンマルトルを拠点として、目の前の現実を切り取りました。

ロートレックの生まれたトゥールーズ伯爵家は、シャルルマーニュ帝の時代から続いた、十字軍でも重要な役割を果たした南フランスの名家でした。しかし伝統的に血族婚を繰り返したため、一族には正常に発育しない子どもや死産児などが多く産まれました。

ロートレックは積み重なった遺伝学的な問題から骨の病気にかかり、10代のなかばから足の成長が止まってしまいました。そのことが原因で父親に疎外され、心に傷を負います。サナトリウムなどで療養する生活の中で、ロートレックは絵を描きはじめ、才能を伸ばしてゆきました。

パリのモンマルトルで自滅的な生活を送り35歳で死去

19世紀半ばからのパリは都市化が進み、パリののどかな郊外であったモンマルトルは、歓楽街として発展してゆきます。ロートレックはモンマルトルの夜の生活に魅了され、キャバレーなどに入りびたる生活を送ります。

夜の世界はロートレックの芸術のテーマとなり、そこで目にする人々や出来事を観察し、多くの作品を残しました。しかしもともと弱い体だったところに過度な飲酒がたたり、35歳の若さで亡くなりました。

「ロートレック」の絵画の特徴とは?

モンマルトルの街角

日本美術の影響を受けて西洋絵画に革新をもたらした

19世紀後半のフランスでは、日本の美術工芸品や浮世絵などが注目され、ジャポニスム(日本趣味)が流行しました。前衛の画家たちは西洋絵画に日本の美術の造形や色彩を取り入れ、絵画に革新をもたらしました。

印象派のモネやドガ、ゴッホなど多くの画家が日本美術から大きな影響を受けました。ロートレックも影響を受けた画家の一人で、浮世絵版画の大胆な構図や陰影の排除、平面的な彩色や線描などの要素を取り入れました。

日本美術は、ロートレックなどの画家を通して、遠近法などに基づく西洋絵画の伝統的な様式に変貌を促しました。

モンマルトルのキャバレーのポスターを多く手がけた

ロートレックはモンマルトルの自由奔放な世界を安住の地とし、当時人気のあったキャバレー、ムーラン・ド・ギャレットやムーラン・ルージュ、ル・ディヴァン・ジャポネの常連となり、そこに集う人々の孤独や働く人の真実を容赦なく切り取りました。

ロートレックは人物を美化して描かず、逆に人間の持つ醜い面に興味を持ち、観察したことを風刺的に表現したため、モデルとなった人物からは不満の声が上がることもありました。

1891年からリトグラフを制作、美術史に残る有名なポスターに

1891年からロートレックはリトグラフ(石版画)を始めました。350枚のリトグラフを制作したうちの、30枚は実用美術のポスターとして制作されました。最初に作られたポスター『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』は、パリの街に貼りだされると大評判となり、画家は一夜にして有名人となりました。

「ムーラン・ルージュ」はモンマルトルに1889年に開店したダンスホールで、ロートレックはその店内の客の様子や、出番前に衣装をつける女道化師の姿などを次々と描きました。それらの作品は美術史の中で最も有名なポスターとなっています。

「ミュシャ」とともにポスターの黄金時代を作りあげた

19世紀末のパリでは、それまで富裕層のものだった芸術が大衆に広がり、安価に大量に作れるポスターの発展を促しました。ロートレックと同時代のポスター画家に、アルフォンス・ミュシャ(1860年~1939年)がいます。

ロートレックとミュシャのポスターは大人気でコレクターなども登場し、ポスターの黄金時代を作りあげました。

■参考記事
「ミュシャ」の生涯とは?代表的なリトグラフのポスターも紹介

「ロートレック」の代表作品を紹介

『フィンセント・ファン・ゴッホ』(1887年)

(出典:Wikimedia Commons)

ロートレックが23歳のときに34歳のゴッホをパステルで描いた作品です。パリの酒場のテーブルに座ったゴッホの前にはアブサンが置かれています。アウト・サイダーの二人はパリで友人となりました。

『フェルナンド・サーカスにて』(1888年)

(出典:Wikimedia Commons User:Petrusbarbygere)

ロートレックの油彩画の最初の傑作とされる作品です。中央に空白を置き、構図を斜めに二分する構図は日本画の影響によるものです。また偶然の一瞬を切り取ったような表現も日本画の手法で、ドガなども着目して取り入れていました。

『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』(1891年)

(出典:Wikimedia Commons User:Petrusbarbygere)

このポスターでも、日本美術の手法を取り入れ、誇張した線や単純な色彩を用いました。極端に対象を省略し、明るい地の上にシルエットで描かれた人物の絵は、遠くからでも目立ちポスターに効果でした。

『アリスティード・ブリュアン』(1892年)

(出典:Wikimedia Commons)

モンマルトルのキャバレーを経営し、自分の店でシャンソンを歌ったアリスティード・ブリュアンを宣伝するために作られたポスターです。ブリュアンは労働者階級の人生を歌い、お客に向かって小言を言うスターでした。

このポスターでは、レタリングの配置と赤・青・黄の3原色の配色を試みています。

まとめ

ロートレックは、名門である自分の家系への反発や、病気による差別、父親からの疎外などからくる孤独感から逃れるため、夜のモンマルトルに傾倒しました。

モンマルトルは画家の題材となり、人間の本性を表現できる類まれな能力を駆使することにより、誰も気が付かない一瞬を価値のある出来事として絵画に残しました。

日本芸術の様式を多く取り入れたロートレックのポスターは、美術史上における最も有名なポスターとなっています。