「ゴーギャン」とは?ゴッホとの関係やタヒチを描いた代表作品も

タヒチを舞台にした作品で近代絵画に革新をもたらし、その生き方も注目される「ゴーギャン」とは、どのような画家なのでしょうか?この記事では、ゴーギャンの生涯を作品の特徴とともに解説します。あわせてゴッホとの関係や、代表作品ならびにゴーギャンがモデルとなった文学や映画も紹介しています。

「ゴーギャン」とはどんな画家?

ゴッホ『ポール・ゴーギャン(赤いベレー帽の男)』1888年
(出典:Wikimedia Commons User:C1cada)

ゴーギャンとは、パリに生まれたポスト印象派の画家

ポール・ゴーギャン( Paul Gauguin 、1848年~1903年)とは、フランス・パリに生まれたポスト印象派の画家です。現実世界と内なる世界を総合する総合主義を確立し、未知なる世界を求めてタヒチで多くの絵画を制作しました。

裕福な株式仲買人の生活から一転して、未開の地で困窮しながら芸術を追求したゴーギャンの生涯は、映画化されるなど注目されてきました。

幼少期から青年期に南米をはじめ各地を巡る

ゴーギャンが生まれた年にはナポレオンが大統領となって共和制を弾圧します。共和制のジャーナリストであったゴーギャンの父はペルーのリマに逃れ、ゴーギャンは幼年期の6年間を南米で過ごします。

フランスに帰国後は船員となり、南米をはじめ世界各地をめぐりました。その後は海軍を経て株式仲買人となり、経済的に成功します。当時のフランスは経済発展を遂げており、ゴーギャンも裕福な生活を送ることができました。

幼少期から青年期に経験した異国の地との出会いは、ゴーギャンの人生における原体験となりました。

裕福なアマチュア日曜画家から芸術家へ

ゴーギャンは休日には趣味で絵を描くようになります。日曜画家だったゴーギャンは、印象画家のピサロとの出会いにより、当時のパリで近代絵画の扉を開いてた印象派を知り、新しい表現形式に衝撃を受けます。

ゴーギャンは1879年の第4回印象派展に出品し、画家として歩み出します。1982年に株式が大暴落したことをきっかけに株式仲買人をやめ、画家に転身することを決意します。画家になってからは、経済的な困窮や病気に苦しみながら、芸術活動を続けました。

「総合主義」を確立し、野生を求めてタヒチに赴く

ゴーギャンは形態と色彩、さらに現実世界と内なる世界の総合を絵画様式とする「総合主義」を確立します。目に見えない神秘を表現するモローやルドンなど「象徴主義」の系譜につながる運動でした。

総合主義が確立されると、ゴーギャンのテーマは「西洋」と「野生」の対立に移り、野生を求めてタヒチに赴きます。最初の訪問では1891年から93年まで滞在し、タヒチの女性たちの日常を描きました。この時期には『浜辺の二人の女』『異国イヴ』『市場』など、よく知られるゴーギャンの傑作が描かれました。

1895年の2度目の滞在では6年間を過ごし、晩年はマルキーズ諸島に移ります。困窮と病気のうちに55歳で亡くなりました。

「ゴーギャン」と「ゴッホ」との関係とは?

「ゴッホ」『ひまわり』1888年(耳切り事件直前に描いたとする説がある作品)

ともに新しい様式を模索していたゴーギャンとゴッホ

ゴーギャンが途中から参加した印象派展は1886年の開催が最後となり、印象派による改革の時代は終焉を迎えました。ゴーギャンは印象派の次に前衛となったポスト印象主義の画家として、独自の様式の模索を始めます。

その頃、ゴーギャンと同じくポスト印象派として新しい絵画を模索していたゴッホは、アルルに画家の共同体を作ることを夢見ていました。ゴッホはアルルの「黄色い家」にゴーギャンを誘い、1888年10月23日から二人の共同生活が始まりました。

二人は共同生活を始めるが「ゴッホの耳切り事件」で破綻

ゴッホとゴーギャンは一緒に生活しながら制作を行いましたが、芸術論などを巡り、二人は衝突するようになります。

1888年12月23日にゴッホが自分の耳を切る事件が起こり、ゴーギャンはそれをきっかけとしてその翌日にアルルを去りました。二人の共同生活はわずか2か月で終了しましたが、1890年にゴッホが自殺するまで友情は続きました。

ゴーギャンの代表作品を紹介

『説教のあとの幻影(天使とヤコブの闘い)』(1888年)

(出典:Wikimedia Commons)

観念を象徴的に表現する「総合主義」を表す代表作品です。『旧約聖書』「創世記」に登場する「天使とヤコブの闘い」の説教を聞いた農婦たちが、その場面を幻視する様子が描かれます。現実と非現実の二つの世界の融合をテーマとして、新しい手法の絵画を創始しました。

『タヒチの女』(1891年)

(出典:Wikimedia Commons)

最初のタヒチ滞在時に、タヒチの自然と人物を描いた代表作品です。女性が太い腕を地面につくポーズは繰り返し描かれ、女性と大地の結びつきの強さを表しているとされます。

『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(1897年)

(出典:Wikimedia Commons User:Rlbberlin)

この作品は、ゴーギャンが死を決意して描いた大作で、作品の完成後に自殺を試みますが、未遂に終わります。ゴーギャンはこの絵の構想をずっと考えていて、死ぬ前に描こうと思ったと語っています。

「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という問いは、ゴーギャンの芸術を貫くテーマでした。

右端に赤ん坊が、中央には知恵の木の実を採るイブ、左端に死が近い老婆が描かれています。

「ゴーギャン」がモデルとなった文学や映画

サマセット・モームの小説『月と六ペンス』

サマセット・モームは、ゴーギャンをモデルとした小説『月と六ペンス』を1919年に出版しました。絵を描かなければならないという衝動に突き動かされ、安定した生活を捨ててタヒチに向かった人物の謎に迫る作品です。

実際のゴーギャンの人生とは異なる部分が多くありますが、ゴーギャンという画家の魂の謎に小説を通して触れることができます。

映画『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』

2017年に公開されたフランス映画『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』では、ゴーギャンが家族を捨ててタヒチに旅立ち、そこで送った厳しい生活の前半生が描かれました。

モデルで妻であったテウラとの愛などが記された、ゴーギャンが綴ったタヒチの自伝的随想『ノアノア』を基に製作されました。

まとめ

ゴーギャンは、人間とは何者なのかという問いを追求するため、西洋文明を捨て、熱帯のタヒチで芸術の創造に賭けました。貧困と病気の苦難の中で多くの革新的な作品を残し、西洋絵画に大きな影響を与えました。

ゴーギャンのドラマティックな生涯と作品は多くの謎も含んでおり、小説や映画のモチーフとして取り上げられています。

■参考記事
「印象派」とは何か?絵画の特徴や代表的な画家と作品も解説