アメリカ現代美術を開拓した「ジャクソン・ポロック」は、巨大な画面に絵の具を飛び散らせた斬新な技法で知られています。実物を目にすると迫力に圧倒されるポロックの絵画は、どのように生まれたのでしょうか?この記事ではポロックの絵画の特徴や技法を解説し、その生涯についても紹介します。
「ジャクソン・ポロック」とは?
「ポロック」とは”抽象表現主義”の代表的な画家
ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912年~1956年)とは、20世紀のアメリカ美術を代表するアメリカ出身の画家です。
ポロックは、パリに代わってニューヨークが芸術の中心となるきっかけとなった美術運動「抽象表現主義」を代表する画家の一人です。その画法はアクション・ペインティングと呼ばれ、巨大な画面に絵の具を垂らしたり飛び散らせたりする斬新なものでした。
ポロックは前衛芸術の先端に立ち、アメリカの現代美術に大きな影響を与え、アメリカ絵画をそれまでの歴史の中ではじめて国際的に重要なものにしました。
「抽象表現主義」は第二次世界大戦後のアメリカに起こった美術の潮流
抽象表現主義(英: Abstract expressionism)は、第二次世界大戦後のアメリカに起こった美術の潮流です。20世紀初頭にヨーロッパ各地に起こった未来派やキュビズムなどの「抽象」の美学と、内面や感情を主観的に表現するドイツ表現主義などをの表現様式を引き継いだものです。
その特徴は、巨大なカンヴァスと、中心がなく均一に色や線が全体を支配する画面構成にあります。さらに、カンヴァスが作家の描画行為のフィールドとなり、イメージの再現から逸脱し、作家の内面にある創作過程が重視されます。
ポロックは抽象表現主義ムーブメントを先導しました。
■参考記事
「抽象画」の意味とは?有名画家や代表作品と芸術運動も解説
「ポロック」の特徴や技法とは?
ポロックは「アクション・ペインティング」の最も重要な画家
ポロックは「アクション・ペインティング」を行うアクション・ペインターの最も重要な画家として知られています。1952年に、戦後アメリカの抽象表現主義に着目した批評家のローゼンバーグが「アメリカのアクション・ペインター」と題する論文で提唱し、アクション・ペインティングの概念が広まりました。
アクション・ペインティングとは、カンヴァスを「行為(アクション)する場」とみなし、精神的な自己追究を突き詰め表現する様式です。ポロックは、大きなカンヴァスの周りを動きながら制作しました。
アクション・ペインティングは、抽象表現主義を展開する一群の作家たちの制作技法を示す言葉としても使われています。
新しい技法「ドリッピング」「ポーリング」を駆使
ポロックは、壁画家たちとの仕事を通じて、大きな領域で色彩や形体を配置する方法を研究しました。絵の具をカンヴァスに滴らせる「ドリッピング」や、絵の具を流し込む「ポーリング」の技法を発明し、またエアガンで吹き付けたりもしました。
ポロックの技法は「床に広げた巨大なカンヴァスに、塗料を棒やコテを使って滴らせる」との説明でアクション・ペインティングの技法としてもたびたび説明されてきました。
ポロックは1950年のインタビューで、「新しいことを為そうとするには新しいテクニックが必要となる。絵筆はカンヴァスに触れず、その上を動くだけだ」と述べています。
ポロックは、工業的な合成塗料やシリコーン、アルミニウム塗料なども使用し、新しい表現を追求しました。同様の試みを行う画家は大勢いましたが、偶然の産物で終わらせず、テーマを設定して視覚的調和へと展開させた芸術家はポロックが初めてだと評されています。
無意識と芸術のつながりを追求
ポロックは、フロイトやユングから影響を受け、無意識と芸術のつながりを追求しました。また神話やネイティブ・アメリカンのアートにも興味を持っていました。さらにシュルレアリスムやピカソの影響も受けましたが、それらの影響を克服して独自の芸術にたどり着きました。
「絵の中にいるとき、私は自分が何をしているのか気づいていない。純粋な調和、楽々としたやり取りがあり、絵はうまくゆく」とポロックは述べています。
「ポロック」の生涯とは?
ニューヨークの「アート・スチューデンツ・リーグ」で学ぶ
1912年、ポロックはアメリカ・ワイオミング州に生まれ、1930年から優れた芸術家を数多く生んだことで知られるニューヨークの「アート・スチューデンツ・リーグ」で学びました。日本人では高村光太郎や荻原碌山などが留学しています。
卒業後は1942年まで連邦美術計画の一環である公共建築の壁画を描く仕事に就き、メキシコ壁画運動の作家の助手を努めました。その際に巨大な空間にエアブラシなどを使って描く技法に出会いました。
新しいアメリカ絵画の旗手として「アメリカン・ドリーム」を体現
1943年に美術画廊で初の個展を開き、ポロックの非凡な才能が知られることになります。それまでの画廊では目にすることのなかった工業塗料が飛び散る大きな作品は話題となり、次第に価格は高額になってゆきました。
1948年にはヴェネツィア・ビエンナーレに出展され、翌年はフィレンツェとミラノに巡回され、ヨーロッパに紹介されました。1951年に「MoMA(モマ:ニューヨーク近代美術館)」における「アメリカの抽象絵画・彫刻展」に選出されると、ポロックの国際的な人気は絶頂となりました。
ポロックは絵画でアメリカン・ドリームを体現した初めての芸術家です。
アルコール中毒の末に自動車事故で急逝
1920年代から30年代のアメリカは、過剰な飲酒が称賛される時代でした。禁酒法が同時代に施行されますが、アルコール中毒の若者が生み出されました。
ポロックも10代の頃からアルコール中毒となり、激しい怒りを抑制できずにしばしば問題行動を起こしました。伝記作家たちは、自己破壊的なポロックの逸話を多く収集しました。
ポロックは一度は禁酒しますが、再びアルコールに溺れるようになりました。1956年に飲酒運転して木立ちに衝突し、44歳で急逝しました。
まとめ
ジャクソン・ポロックは抽象表現主義により、アメリカの美術をはじめて国際的に重要なものにしました。存命中に作品の価格は跳ね上がり、美術界でアメリカン・ドリームを体現したはじめての画家でもあります。
現代美術に最も影響力を持つといわれるドイツの画家ゲルハルト・リヒターは、ジャクソン・ポロックが自分を感動させた最初のアーティストであると述べています。