「欽明天皇」は何をした人?即位の謎や仏教伝来・朝鮮との関係も

「欽明天皇」は6世紀に在位した天皇のひとりで、仏教伝来時の天皇としても知られています。実は「欽明天皇」の即位には2通りの説があり、時代が時代なだけにいくつかの謎があるようです。「欽明天皇」の系図や即位のいきさつ、当時の朝鮮との関係や任那復興への思いなど、「欽明天皇」の治世について解説します。

「欽明天皇」とは?

「欽明天皇」は6世紀の第29代天皇

「欽明天皇(きんめいてんのう)」は第29代天皇と伝えられる人物です。先代の宣化天皇の死を受けて、539年に即位したとされています。

「欽明天皇陵」は奈良の梅山古墳

「欽明天皇」の墓は奈良の梅山古墳(奈良県明日香村)です。梅山古墳は全長約138メートルの前方後円墳で、宮内庁によって「檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみさぎ)」と定められています。一方で、奈良県橿原市の丸山古墳を「欽明天皇」の陵墓とする説もあります。

「欽明天皇」の家系図

「欽明天皇」は継体天皇の子供

「欽明天皇」は第26代天皇・継体天皇の息子にあたります。実は、先述した宣化天皇も継体天皇の息子で、「欽明天皇」の異母兄にあたる人物です。

「欽明天皇」の子には用明天皇や推古天皇

「欽明天皇」の家系図では、その子にも後に天皇となる人物が複数います。

たとえば、宣化天皇のむすめとの間の子・敏達天皇、蘇我稲目のむすめとの子・用命天皇、推古天皇が有名です。また、崇峻天皇も「欽明天皇」の子に当たります。

「欽明天皇」の子孫には聖徳太子

「欽明天皇」の孫には、かの有名な聖徳太子もいます。聖徳太子は、その父が用明天皇で、その母もまた「欽明天皇」を父に持つ人物です。つまり、聖徳太子の父母はいずれも「欽明天皇」を父にもつ異母兄妹なのです。

「欽明天皇」の即位と時代背景

当時天皇を取り巻くさまざまな勢力があった

「欽明天皇」の時代はすでに大和政権の力は大きく、その政治を支えるために様々な役職があり、それを取り巻く様々な勢力があったとされています。中でも、大伴金村、物部尾輿、蘇我稲目の三者は拮抗していたとしてよく名が挙がる人物です。

三名のうち大伴金村は継体天皇6年(512年)の任那(みまな)4県の割譲要求を承諾し、これに対する糾弾を受け失脚します(540年)。これにより蘇我氏と物部氏の2大勢力に絞られ、対立はより一層激しくなりますが、541年蘇我稲目は娘を「欽明天皇」の妃として送り込むことで天皇の外戚としてその権力を拡大していきました。

一説では継体天皇の死後すぐ即位したとも

「欽明天皇」を宣化天皇の後に即位した第29代天皇とするのは『日本書紀』の記述を元にしたものですが、一方で531年に継体天皇がなくなった後にすぐ即位していたのではないかとする説もあります。

この説によると、安閑天皇と宣化天皇の朝廷と「欽明天皇」が対立する形で両朝が分立、それが539年に「欽明天皇」によって統一されたと位置付けられています。また、この説では先述した大伴金村の失脚もこの欽明朝の統一と関係するものだったとみられています。

「欽明天皇」は何をした人?主な出来事

欽明天皇13年、仏像と経文が伝来(西暦552年)

「欽明天皇」の治世で最も大きな出来事が仏教の伝来です。欽明天皇13年(西暦552年)に百済から仏像と経文が伝来したことを指して「仏教伝来」と位置付けられています。なお、この仏教の伝来に関しては538年とする説などもあります。

百済から仏教がもたらされた当時、その受け入れをめぐって蘇我氏と物部氏で対立が起こりますが、「欽明天皇」は仏教礼拝を推す蘇我氏を許容します。しかし、翌年に疫病が流行したことを受け、物部氏は”外国の神を受け入れたからだ”と蘇我氏を激しく非難、欽明天皇もまた仏教廃止へと転換しました。これにより、国内ではしばらく仏教がタブー視されることとなります。

百済・聖明王と「任那」の復興を協議するも滅亡

「欽明天皇」の治世では朝鮮半島との関係も大きく変化しました。「欽明天皇」は541年から百済の聖明王と、日本の朝鮮半島の拠点であった任那(みまな)の復興に関して協議していたとされています。ただし、戦況は百済には不利で、554年に聖明王が亡くなった後、新羅が任那(みまな)を滅ぼしてしまいます(562年)。

新羅の行いに腹を立てた「欽明天皇」は軍を送っていますが、いずれも敵に討たれるなどして退却、結局は任那の土地を失いました。

「欽明天皇」は亡くなるまで任那再興を祈念

「欽明天皇」はその後も蘇我氏らとともに、朝鮮半島にはたらきかけ日本の大陸での権力強化につとめます。しかしその願いはかなわず、571年病に倒れ崩御しました。「欽明天皇」は亡くなるまで任那復興を夢見ていたとされています。

まとめ

「欽明天皇」は第29代天皇で、継体天皇の息子にあたります。百済から仏教がもたらされた(仏教伝来)時の天皇として知られています。「欽明天皇」の即位には諸説あり、第28代天皇の宣化天皇の後に即位したとされる説のほか、継体天皇の死後すぐに即位していたのではないかとする説もあります。

「欽明天皇」の家系ではその子に用明天皇や推古天皇が、孫に聖徳太子がいることでも有名で、その治世は朝鮮半島との関係と仏教をめぐる争いが特徴です。