「一条天皇」は何をした人?皇后定子・彰子と辞世の句の関係も

平安時代の中でも、摂関家と国風文化が栄えたのが「一条天皇」の治世で、妻である定子・彰子の女官にそれぞれ清少納言と紫式部がいたことでも知られています。「一条天皇」の家系やそれを取り巻く藤原氏をはじめ、時代背景や「一条天皇」のエピソードについて紹介します。

「一条天皇」とは?家系図

「一条天皇」は第66代天皇、円融天皇の子

「一条天皇」は第66代天皇で、第64代の円融天皇の子にあたります。986年(寛和2年)、花山天皇が出家したことを受け、7歳で即位しています。俗にいう「寛和の変」で、祖父である藤原兼家が孫の早期即位を狙った陰謀ともされる出来事でした。この「一条天皇」の即位を受け、藤原兼家が摂政(のちに関白)の地位についています。

皇后、藤原定子は摂政藤原兼家の孫

「一条天皇」は幼くして即位したため、実際の政治は祖父である藤原兼家が進めました。その兼家の死後、息子の道隆が関白を務めますが、その娘が「一条天皇」の皇后である藤原定子です。この藤原定子は美しさもさることながら、漢詩にも長けた才女だったとされています。

中宮、藤原彰子は藤原道長の娘

「定子」の父である道隆の死後も、その弟道兼が引き続き外戚として関白を務めますが、この道兼は就任後すぐに亡くなります。その次に実権を掌握するのが藤原道長です。道隆・道兼の弟にあたる人物です。

道長は先に中宮となっていた定子を皇后宮とし、自分の娘の「藤原彰子」にも中宮を名乗らせさらに力を強めていきます。

この彰子の入内は道長の強引な運びもあり、後から入内した彰子が悪者に写りがちですが、定子の死後、その子を育て上げ、「一条天皇」の意向に沿う形で天皇に推すなど彰子と一条天皇の仲は悪くはなかったといわれています。

子供はのちに「後一条天皇」「後朱雀天皇」に

「一条天皇」は定子と彰子のいずれとも子をもうけていますが、そのうち後に天皇となったのは先に生まれた定子の息子ではなく、彰子の息子・敦成親王です。敦成親王は、「一条天皇」の後に三条天皇が即位した際に皇太子となり、三条天皇の譲位を受け「後一条天皇」として、第68代天皇に即位しました。また、第69代天皇の「後朱雀天皇」は「後一条天皇」の同母弟で、「一条天皇」の子です。

「一条天皇」の治世とは?時代背景

「一条天皇」の治世は摂関政治、藤原氏の最盛期へ

平安時代と言えば摂関政治で有名ですが、「一条天皇」の治世では藤原道隆・道長両氏によって藤原氏の勢力が勢いを増しています。

一般に藤原氏の最盛期は藤原道長・頼道父子の時代と言われますが、道長は娘を宮中に入れ、外孫が位につくことで自らの地位・権力を不動のものにしていきます。その最初の入内が先述の藤原彰子です。実は1人の天皇に対し2人の后が立ったのははじめてのことで、まさに、藤原氏最盛期への最初の足がかりともいうことができるでしょう。

定子の女官に清少納言、彰子の女官に紫式部が

「一条天皇」の治世は平安女流文学・国風文化が花開いた時代でもあります。皇后定子の女官には『枕草子」の作者である清少納言が、中宮彰子の女官には『源氏物語』をかいた紫式部がいたことも有名です。特に『枕草子』には定子に関する記載もあり、聡明で美しく優しい姿が描かれています。

「一条天皇」の代で7回元号がかわっている

「一条天皇」が治めた平安時代は、天皇が即位するタイミングだけでなく、慶事や天災などのタイミングでも改元されていました。たとえば、「永祚(えいそ)」と改元した直後に巨大台風をはじめとした天変を受け、元号を「正暦(しょうりゃく)」に変えているのが良い例です。こうして「一条天皇」の在位中には計7回の改元が行われています。

「一条天皇」は何をした人?エピソード

「一条天皇」は穏やかな性格で芸術的に長けた人物

「一条天皇」の時代は女流文学が栄えた時代でもありますが、「一条天皇」自身も芸術的センスを備えた人だったとされています。文芸に深い関心をもっていた「一条天皇」の詩文が残っているほか、笛など音楽にも堪能だったようです。また、「一条天皇」自身も穏やかな人柄だったと語り継がれています。

「一条天皇」は愛猫家でも知られる

「一条天皇」は愛猫家でも知られる天皇です。中でも有名なエピソードでは、猫に位を授けていたとする話や、その猫に飛びかかった犬に激怒し「犬島に流せ」と命じたとする『枕草子』の一節も挙げられます。

1011年に病死、辞世の句は2パターン?

「一条天皇」は1011年に病に倒れ、そのまま崩御します。その後三条天皇が即位し、彰子との子である敦成親王が皇太子となったことは先述しましたが、「一条天皇」の辞世の句は2通りの記録があり、それぞれ微妙に解釈が異なることで知られています。

ひとつめは、藤原道長による『御堂関白記』に残る辞世の句で「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」というものです。道長はこれを「彰子を残して亡くなることを悔やんでいる」と解釈しました。

もうひとつが藤原行成の『権記』に書かれたもので「露の身の 風の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき」というものです。行成は、出産時のトラブルで亡くなった妻定子に寄せたもので、「成仏しきれていない定子を残して成仏することを悔やんだ」と解釈したようです。

まとめ

「一条天皇」の治世は平安時代、平安女流文学が最も栄えた時期です。『枕草子』の作者である清少納言と『源氏物語』の作者である紫式部はそれぞれ「一条天皇」の妻に仕えていたことでも知られています。また、摂関政治で知られる藤原氏が勢力を強めたのもこの時代で、自分の娘を入内させ外戚としてその権力を強めた藤原道長が、その長女を入内させたのが「一条天皇」でした。