「天武天皇」は壬申の乱の後に即位した天皇で、第40代に数えられます。この「天武天皇」は飛鳥浄御原令や八色の姓などの政策のほか、『日本書紀』ともかかわりが深い天皇として知られています。「天武天皇」と天智天皇、持統天皇などの関係をはじめ、何をした人か出来事や文化について解説しましょう。
「天武天皇」とは?即位のいきさつ
「天武天皇」は第40代天皇、即位前は「大海人皇子」
「天武天皇(てんむてんのう)」は第40代に数えられる天皇で、在位は673年(天武天皇2年)から686年(朱鳥元年)とされています。第39代弘文天皇の後に即位したのが「天武天皇」で、即位前の名前を「大海人皇子(おおあまのおうじ)」といいます。
「天武天皇」は壬申の乱(672年)に勝利して即位した
「天武天皇」は、672年に起きた壬申の乱(じんしんのらん)に勝利し、即位しました。この壬申の乱の背景には、天智天皇の皇位継承をめぐるいざこざがあります。
大海人皇子の兄、中大兄皇子は大化の改新を経て即位、天智天皇となりました。当時は同母を持つ兄弟間で皇位継承がなされるのが通例でしたが、天智天皇は大海人皇子ではなく大友皇子(天智天皇の長子)を皇位継承者として強く推したのです。
この天智天皇の意向を察した大海人皇子は一旦は出家し身を引きます。ところが、天智天皇崩御後も続いた大友皇子からの兵糧攻めにも似たふるまいなどに腹をたて、結局は挙兵します。戦いは2カ月以上にも及び、大友皇子を自害に追い込みました(壬申の乱)。
こうしてその翌年、大海人皇子は「天武天皇」として飛鳥浄御原宮で即位するに至ったのです。
なお、「天武天皇」の先代、弘文天皇は大友皇子が即位した名ですが、実際にその地位に即位したかどうかが定かではないなどの理由で、大友皇子と記載されることが多いようです。
「天武天皇」の家系図
「天武天皇」は舒明天皇と皇極天皇の子
「天武天皇」は舒明天皇と皇極天皇の子として生まれました。舒明天皇は第34代天皇、皇極天皇は第35代天皇です。この皇極天皇は退位後再度即位する「重祚(ちょうそ)」をはじめておこなった天皇としても知られていて、第37代斉明天皇としても名を残しています。
また、先述した中大兄皇子(天智天皇)とは両親を同じくする兄弟で、中大兄皇子が兄、「天武天皇(大海人皇子)」が弟です。
「天武天皇」の妻(皇后)はのちの「持統天皇」
「天武天皇」の妻(皇后)である「鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)」は、後の持統天皇として知られます。
皇后は晩年病気がちとなった「天武天皇」に依頼される形で統治者としての存在感を強めていきました。686年には皇后と草壁皇子に政務を任せるように言い渡したともされています。皇后は「天武天皇」の崩御後、第41代、史上三人目の天皇として即位しました。
「天武天皇」は何をした人?
「飛鳥浄御原令」の編纂を命じた
「天武天皇」の治世では、天智天皇の基本的な施策を引き継いだとされていますが、「飛鳥浄御原令」の制定もそのひとつです。681年、律令の編纂を命じたとされています。「天武天皇」は律令制による中央集権国家の建設に力を注ぐとともに、天皇や皇族を中心とした「皇親政治」を採用しました。
「天皇」や国号「日本」を使った初めての天皇
「天武天皇」は673年に飛鳥浄御原宮で即位し「天武天皇」となりましたが、この際これまでの「大王」という称号に変わってはじめて「天皇」という称号が用いられたとする学説があります。これは唐の“皇帝”と対等な王であることを示すためだったとも言われています。
あわせて、これまで「倭国」などと称されてきた国号も「日本」に改めました。大国に対して自らの存在を知らしめる目的として大陸由来の国号の使用をやめたとするのが定説です。
新官位制と「八色の姓」で身分制度を確立
「天武天皇」は、天皇を頂点とする新たな身分制度を確立したのも大きな功績です。新しい官位制を定めるとともに、684年に「八色の姓(やくさのかばね)」を制定します。この姓制度では、真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなき)の8つの身分に分けました。
妻の病気平癒を願い「薬師寺」を建立
天武天皇は皇后が患った際にその平癒を願い、「薬師寺」建立を思い立ちました。この際、百僧を出家させたとも言われています。しかし、「天武天皇」が病に倒れたため、自身は薬師寺の完成を見ずに崩御、伽藍の整備などは続く持統天皇、文武天皇に引き継がれることとなりました。
「天武天皇」の時代の文化
「天武天皇」の治世は白鳳文化
「天武天皇」の治世は「白鳳文化」と呼ばれます。7世紀後半から8世紀初頭にかけての文化が該当します。また、伊勢神宮の式年遷宮を始めたのも「天武天皇」ですが、神祇制度(じんぎせいど)の整備とあわせて、仏教を厚く保護したことでも知られています。
「天武天皇」の歌は万葉集に残っている
「天武天皇」は最古の歌集である『万葉集』に歌を残していることでも知られています。中には、のちに兄の妻となったことでも知られる前妻「額田王」への返歌もあります。
なお、誤解されやすいのですが、百人一首に歌が残っているのは兄の「天智天皇」です。「天武天皇」の歌は百人一首には含まれていません。
『日本書紀』『古事記』の編纂を始めたのも「天武天皇」
「天武天皇」は『日本書紀』と『古事記』の編纂を命じた天皇です。
『古事記』は日本最古の歴史書で、稗田阿礼(ひえだのあれ)が「天武天皇」の勅によって帝紀および先代の旧辞を暗記、元明天皇の勅により太安万侶(おおのやすまろ)が記録して712年に完成させました。一方『日本書紀』もまた「天武天皇」の命によってつくられたもので、『古事記』から遅れること8年、720年に完成しています。
どちらも歴史書ではありますが、巻数だけ見ても『日本書紀』は30巻長く、大所帯で長い期間をかけて編纂されたため歴史書としての性格が強いと言われています。
まとめ
「天武天皇」は第40代天皇で、壬申の乱に勝利して即位した天皇として知られます。在位中に「飛鳥浄御原令」や「八色の姓」などによって中央集権国家の確立や天皇を頂点とした身分制度を作り上げたことでその名を残しています。新たに「天皇」「日本」という言葉を用いるなど、対外的にも天皇としての地位を確立させたいという想いが伺えるのも特徴です。
また、『日本書紀』や『古事記』の編纂を命じたほか、神道の整備と仏教の保護のどちらにも尽力したことで知られる天皇です。