「なくよウグイス平安京」は有名な歴史の年号語呂合わせですが、この平安京へと遷都したのが「桓武天皇(かんむてんのう)」です。「桓武天皇」はなぜ平安京に遷都したのでしょうか。「桓武天皇」の2度にわたる遷都の理由と蝦夷討伐などの政策のほか、「桓武天皇」の家系や仏教との関係についても解説します。
「桓武天皇」とは?
「桓武天皇」は第50代、平安時代の天皇
「桓武天皇」は第50代の天皇です。在位は781年(天応元年)~806年(延暦25年)と、平安時代天皇です。在位期間の元号から「延暦の帝」と呼ばれることもあります。
773年に皇太子となり、その後に父から譲位された
「桓武天皇」は、父である白壁王が即位し「光仁天皇」となったことにより、773年皇太子となります。その後、高齢となった光仁天皇から譲位される形で「桓武天皇」として即位しました。その際、皇太子には同母弟である「早良親王」がついています。
「桓武天皇」の家系図
「桓武天皇」の母は百済にゆかりがある
「桓武天皇」の母「高野新笠(たかののにいがさ)」の父、和氏は渡来人でした。和氏は、百済王(武寧王)の子孫とされる人物であることから、「桓武天皇」自らも“百済王等は朕が外戚”という主旨の発言をしたという記録が残っているようです。
余談ですが、百済の武寧王は日本との親交が深く、この武寧王の代に五行博士が派遣されていて、儒教の伝来とされています(513年)。
「桓武天皇」は中大兄皇子(天智天皇)の子孫
「桓武天皇」の父である白壁王(光仁天皇)は、中大兄皇子の子孫としても知られています。大化の改新で知られる中大兄皇子は、第38代天智天皇です。
「桓武天皇」の子供には平城天皇や嵯峨天皇
「桓武天皇」の子供では、同じく天皇として即位した「平城天皇」と「嵯峨天皇」がいます。「桓武天皇」のすぐあとに即位したのが「平城天皇(へいぜいてんのう)」で、「桓武天皇」の第一皇子です。第二皇子にあたる「嵯峨天皇」は、平城天皇に続き第52代天皇として即位しています。
「桓武天皇」の孫は「平氏」の始祖?
「桓武天皇」の孫には、「平氏」の始祖に当たるとされる人物がいます。
「桓武天皇」には多くの皇子がいて、それゆえに後継ぎの数が増えすぎ財政を圧迫していました。これを憂慮した「桓武天皇」の子のひとり菅原親王は、自分の子を皇族から臣下の籍に降ろす「臣籍降下」を願い出ます。これにより「桓武天皇」の孫が「平高棟(たいらのたかむね)」を名乗るようになりました。これが「平氏」のはじまりとされていて、桓武平氏とも呼ばれます。
「桓武天皇」と長岡京・平安京への遷都
「桓武天皇」はまず長岡京に遷都
「桓武天皇」といえば「なくよウグイス平安京」ですが、「桓武天皇」はまず平城京から「長岡京」に遷都しています(784年)。奈良の都の平城京といわれた奈良時代、貴族の生活は各地からの特産物で豪華な一方、地方農民は重い税に苦しんでいました。また、それまで天皇によって保護された僧侶たちが政治に口を出すようになり、国も乱れていたとされています。
こうした状況を憂慮し、奈良仏教が政治に介入することを阻止するため、「桓武天皇」は奈良を離れ、京へと都をうつし新しい政治体制を図ったのです。
怨霊から逃れるために平安京へ
長岡京に遷都した「桓武天皇」ですが、今度は重臣藤原種継の暗殺事件に見舞われます。この主犯とみられたのが皇太子「早良親王」で、大伴家持の官位はく奪とともに早良親王も皇太子を廃立、幽閉します。そしてその後、早良親王はご飯も食べずに衰弱して亡くなります。
「桓武天皇」の夫人をはじめ母や皇后までもが相次いで命を落としてしまったのはその後のことです。陰陽師に「早良親王の祟りの仕業」と言われた「桓武天皇」は、怨霊を切り離すために「平安京」へと遷都しました(794年)。
遷都によって天皇中心の政治にもどした
先述のように、「桓武天皇」は奈良仏教を中心とした政治から脱却するために遷都しました。僧侶による政治への介入を阻止し、天皇中心の政治に戻そうとしたのが「桓武天皇」の遷都の大きな目的です。
また、藤原種継暗殺は、桓武政権の中心を失う大事件であった一方で、藤原氏に反対する勢力が一層されたことで「桓武天皇」が基盤を固めるきっかけとなったとも言われています。さらに、藤原種継を継ぐ人物が現れなかったことなどから、「桓武天皇」は独裁的な親政、独自の政権を築き上げたと表現されることもあります。
「桓武天皇」のしたこと・やったこと
蝦夷討伐のため征夷大将軍「坂上田村麻呂」を派遣
「桓武天皇」の功績でも大きいのが蝦夷討伐です。蝦夷討伐は、光仁天皇の時代から行われてきたものですが、遷都とあわせて「桓武天皇」の二大事業と呼ばれます。というのも、「桓武天皇」は3度にわたって軍を派遣、その3度めの討伐で征夷大将軍「坂上田村麻呂」が蝦夷軍を降伏させたのです。これにより、「桓武天皇」は国土を確定、東北地方を中央政権の支配下に置くことができました。
「最澄」を唐に送り天台宗を学ばせた
「桓武天皇」は奈良仏教を阻止するために遷都しましたが、これは奈良の僧侶を切り離すのが目的であり、仏教自体を嫌っていたわけではありません。その証拠ともいえるように、最澄を唐に送り天台宗を学ばせています。このことは、日本の仏教に新しい風を吹かせたとして評価されています。
遷都と蝦夷討伐は財政難で中止に
坂上田村麻呂によって蝦夷を手に入れた「桓武天皇」ですが、その後も様々な計画、準備が進められていたようです。しかし、2度の遷都と度重なる蝦夷討伐で財政はひっ迫、いずれも中止となりました。この中止の決定は藤原緒嗣と菅野真道を呼び討論させ得た意見を「桓武天皇」が採用したもので、「徳政相論」と呼ばれます。そしてその翌年、「桓武天皇」は崩御しました。
まとめ
「桓武天皇」は奈良仏教による政治への介入を阻止するため京の長岡京へと遷都、さらには怨霊をおそれ平安京へと2度目の遷都を行いました。奈良仏教を嫌った一方で、最澄を唐へ送り、日本仏教に新しい風をもたらしたことでも評価されています。
また、平安京の遷都・造営とともに2大事業といわれたのが蝦夷討伐です。征夷大将軍坂上田村麻呂によって蝦夷を平定した「桓武天皇」ですが、平安京と蝦夷討伐の2つによって財政難に陥ったことから、晩年はこの二つの事業を中止したことも有名です。