「栄西」と茶の関係は?禅宗や臨済宗と著書「喫茶養生記」も解説

「栄西」は、中国に2度に渡って宋におもむき禅を学び、臨済宗の禅とともに茶の文化も日本に持ち帰りました。日本人の思想や文化に大きな影響を与えた栄西について、その概要を解説します。

「栄西」とは?「茶」の関係は?

まずはじめに「栄西」(1200年~1253年)の概要と、「茶」の関係について説明します。

「栄西」は茶の文化を広めた

「栄西」とは、「道元」とともに鎌倉新仏教を興した禅宗の開祖です。栄西は二度に渡り宋におもむき禅を学びました。その時、中国の禅院で修行の茶礼(されい)として行われていた茶の習慣を研究し、日本に持ち帰ります。当時、日本にはすでに茶は伝わっていましたが、貴族や僧侶など限られた上流社会の習慣でした。栄西はそれを広く一般社会に広めたとして、日本の茶の始祖ともいわれています。

「栄西」の読み方は一般的には「えいさい」

「栄西」の読み方は、一般的には「えいさい」です。しかし読み方は2通りあり、栄西が創建した建仁寺(けんにんじ)では伝統的に「ようさい」と読みます。

「番茶」の茶礼と古式の「喫茶儀礼」

禅寺で行われる「茶礼」とは、朝の座禅と食事のあと、休憩時と就寝前などに一つのやかんから皆で分け合って番茶を飲むもので、特に座禅のあとは眠気冷ましにも効用があり、欠かせないものとされます。

また建仁寺では、毎年4月20日の栄西の降誕会の際に「四頭茶礼(よつがしらされい)」と呼ばれる古式の喫茶儀礼が行われています。四頭は中国の善寺の接客形式で、四人の正客のことを四頭といいます。ここで用いられるのは抹茶で、栄西の時代の茶は現在の抹茶のようなものでした。

「栄西」は『喫茶養生記』を執筆した

栄西はその茶の習慣を善寺だけでなく、良薬として一般に広めるために、その効能などを説いた『喫茶養生記』を著しました。詳しい内容はのちほど説明します。

「栄西」の宗派「臨済宗」とは?

次に栄西の宗派である「臨済宗」について説明します。

「栄西」は禅宗の「臨済宗」の開祖

栄西はもともと比叡山において最澄の興した天台の教えを学びました。27歳のときに宋に留学して天台密教を学び、天台の僧として修行を続けますが、47歳の時にふたたび宋に渡ったとき、臨済宗の禅僧に出会い、禅の修行を行います。

帰国後は日本の禅の発展のため活動しますが、比叡山から激しい弾圧を受けます。幕府の支援で建仁寺を建立しますが、比叡山に配慮し、天台宗と真言宗を兼ねる禅宗の寺とします。天台・密教・禅の三宗兼学の道場として情勢に対応したのです。建仁寺はのちには純粋な禅の道場となり現在に至ります。

「栄西」の主著は『興禅護国論』

栄西は旧仏教側からの弾圧に抗して『興禅護国論』(こうぜんごこくろん)を著します。この書において栄西は、禅宗は天台宗に対立するものではないとして、禅の本質を述べました。加えて戒律を禅の基礎と説くところに栄西の特色があります。

また、天台宗の「四宗合一(ししゅうごういつ)」を説いた最澄の教えのうち、禅が衰退していることを嘆き、禅宗を興すことによって比叡山の教学を復興し、それと同時に国家を守護することができると主張しました。

その序文に書かれた、悟りを得る人の心の広大さを称える格調高い一文を紹介します。

大いなる哉、心や。天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出づ。地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。日月の光はこゆべからず、しかるに心は日月光明の表に出づ。
人間の心は広大だ。天空の高さには圧倒されるが、心はその天をも超えることができる。大地の厚さはとてつもないものだが、心はその大地をも超えることができる。太陽や月の光は厳かで麗しいが、心の輝きはその光をも超える。

■参考記事
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「臨済宗」の特徴は「看話禅」(公案禅)

栄西は臨済宗を日本に伝えた「臨済宗」の開祖ですが、臨済の禅を体系化して確立したのは江戸時代の白隠です。白隠は「看話禅(かんなぜん・かんわぜん)」(公案禅)の修行体系を確立し、武家の支持を得て一般大衆まで禅を広めました。

「看話禅」では「公案」を用いて禅修行を行います。師から与えられた問題の答えを考えながら修行することを「禅問答」といいます。

「道元」の「曹洞宗」の特徴は「黙照禅」

栄西の弟子の明全(みょうぜん)の弟子であった道元は中国曹洞宗の禅を日本に伝えました。道元の曹洞宗では、公案は用いずにひたすら座り続けることが悟りであるとする「黙照禅(もくしょうぜん)」(只管打坐)を行います。

栄西の臨済宗と、道元の曹洞宗は鎌倉新仏教の代表的な禅の宗派ですが、その修行方法は異なっています。

■参考記事
「道元」の思想とは?著書「正法眼蔵」や名言と言葉も紹介

『喫茶養生記』とは?

最後に栄西が書いた『喫茶養生記』について説明します。

『喫茶養生記』は日本で書かれた最初の茶書

栄西の著した『喫茶養生記』は日本における独立して書かれた最初の茶書です。またそれによって茶の文化を広く一般に広めた功績から栄西は茶祖とされています。

『喫茶養生記』は茶の医学的効能を書いた書

『喫茶養生記』は「養生記」とあるように、茶の作法ではなく、当時の中国で説かれていた茶の医学的効能を中心に書かれた書です。その他には茶樹の栽培方法や、茶の煎じ方などについても書かれています。その書は「茶なるものは、末代養生の仙薬、人倫延齢の妙術なり」という茶の効能を説く一文から始まります。

さらに栄西は茶の種子も持ち帰り、寺で栽培を行いました。やがてその茶は全国へ広がり、お茶の産地をあてる遊びや「茶会」が流行するなど、一般的なものとなっていきました。

まとめ

「栄西」は中国臨済宗の公案を用いて考えながら座る「看話禅」を日本に伝え、京都に建仁寺を建立しました。また中国の禅寺で行われていた茶の習慣とその効能を学び、日本にそれを広めたことでも知られています。栄西の臨済宗は茶の文化とともに、日本の禅文化の基礎を築きました。