天台宗の開祖である「最澄」について知っていますか?最澄は「空海」と同じ時期に唐に渡り仏教を学びました。帰国後の二人は日本の仏教の礎となる平安仏教を代表する高僧となります。ここでは最澄の思想や生涯と、空海との比較、さらに天台宗について説明します。
「最澄」とは?
まずはじめに「最澄(さいちょう)」の生涯や思想について説明します。
若き最澄は比叡山にこもって『願文』を著す
最澄とは、『願文(がんもん)』を著した人物です。最澄(767~822年)は豪族の父のもとに生まれ、12歳のときに出家します。19歳のとき比叡山にこもり自省の書である『願文(がんもん)』を著し、そこには「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」に至らなければ山を下りないという決意が書かれていました。
六根清浄とは、人間に具わった六根を清らかにするという意味です。「六根」とは、視覚や味覚などのからだの感覚である五感に意識を加えた6つの感覚器官のことです。覚悟を持った比叡山での修行は12年続きました。
38歳のとき遣唐使に選ばれる
797年には桓武天皇の「内供奉(ないぐぶ)」に選ばれ、また法華教の講義なども行うなど、エリートとして華々しく活躍します。「内供奉」とは、宮中の内道場に奉仕する官職のことで、全国から抜擢された高僧がその職務につきました。
そして還学生(げんがくしょう:短期留学生)に選抜された最澄は、38歳のときに遣唐使として中国に渡り、天台の教義とともに禅や密教の教えを受けます。その期間は1年間という短いものでしたが、帰国後の806年に桓武天皇より天台宗が公認され、最澄は日本の天台宗の開祖となります。
最澄の思想は「円・戒・禅・密」の総合
最澄が開いた日本の天台宗の思想は「円・戒・禅・密」を総合することでした。「円」とは円満な教えのことで、中国を発祥とする本来の天台の教理を指します。「戒」は戒律のことで、最澄独自の思想です。「禅」は禅の行法で、「密」は密教の教えです。
「伝教大師」(でんぎょうだいし)のおくりなが贈られた
866年には清和天皇より伝教大師の諡号(しごう・おくりな)が贈られました。これが日本で初めて贈られた大師号でした。大師号とは、徳の高い高僧の死後、朝廷から贈られる名のことです。
「最澄」と「空海」を比較。2人の違いとは?
次に「最澄」と「空海」の違いについて説明します。
「最澄」はエリート僧として、「空海」は無名の僧として唐に渡った
最澄が遣唐使として唐に渡った804年には、船は違いますが空海も留学生として遣唐使船に乗っていました。最澄はこのとき38歳で、すでに注目されていたエリート僧でしたが、31歳の空海は全くの無名の若者でした。
「空海」は密教を完璧にマスターした
空海は2年という短期間に、当時の仏典を修めるために欠かせなかった梵語を習得し、密教僧として名高い恵果に学び、恵果の後継者として指名されるなど完璧に密教をマスターして帰国します。その時、多くの経典や曼荼羅、法具なども持ち帰りました。
「最澄」は密教を十分に学べなかった
その一方で最澄は1年間と決められていた期間の中、おもに天台の教えを中心に学びました。禅や密教も学びましたが、とくに密教については十分に学ぶ時間がとれませんでした。
ところが帰国すると、当時、新しい仏教として注目されていた密教の呪術能力が求められることとなり、最澄は年下のライバルであった空海に身を低くして教えを乞うことになります。しかし、最澄が派遣した弟子が空海の弟子となって戻らなかったり、経典の貸し借りに関する意見の相違などによって二人の関係は途切れてしまいます。
別離のあとは対照的な道を歩んだ
二人の関係が切れてから、最澄は晩年まで論争にあけくれることになりました。徳一という人物との教理の解釈をめぐる論争です。その論争の決着はつかないまま、最澄は満身創痍で生涯を閉じました。
その一方で空海は高野山や東大寺に道場を開き、東寺も与えられるなど精力的に真言密教の「真言宗」を広げてゆきました。交流が途絶えてからの二人の歩みは対照的なものでした。
「天台宗」と「真言宗」の発展に違いが出た
二人の没後における最澄の「天台宗」と空海の「真言宗」の発展の様相には、また違った対照をみることになります。真言宗においては、空海があまりに偉大で完璧であったためか、後継者に恵まれず、その教義も空海以上に深められることはありませんでした。しかし天台宗においては、最澄が果たせなかった密教の教義を完成させるため、弟子たちが習得にまい進し、教理を飛躍的に発展させます。
また最澄の弟子の円仁は、密教のあとに日本の仏教界を席巻する浄土念仏も取り入れるなどして天台宗を発展させ、比叡山は仏教の総合センターとなって繁栄してゆきました。
■参考記事
「密教」とは何か?その教えや顕教との違いもわかりやすく解説!
「最澄」が成立させた日本の「天台宗」とは?
最後に最澄が成立させた日本の天台宗について説明します。天台宗は日本仏教の原点とされています。
天台宗は『法華経』を中心とする
天台の教学は隋の智顗(ちぎ)が6世紀に確立したもので、『法華経(ほけきょう)』の教義を中心とします。法華経の教えは誰もが悟りを得ることができるという「一乗思想」の立場を取りますが、悟りを得られない人もいるとして、そのレベルによって教えを分けるべきだとする「三乗思想」の法相宗と論争を繰り広げました。前に説明した徳一は法相宗の立場でした。
天台宗の特徴は「四宗合一」と「止観」
最澄の天台宗は、中国の天台宗をそのまま伝えたのではなく、先に説明した「円・戒・禅・密」を統合した、「四宗合一(ししゅうごういつ)」または「四種相乗(ししゅそうじょう)」という思想が基本です。
そして天台宗の修行の特徴は「止観」にあります。心を静めて本来の静寂な状態に安定させることが「止」で、「止」によって安定した心で対象を観察することが「観」です。「止観」は、「止」という禅定だけでなく、「観」という智慧も重視するところを特徴とする瞑想法です。
天台宗で「天台本覚思想」が生まれた
「天台本覚思想(てんだいほんがくしそう)」は「本覚思想」ともいわれます。「本覚」とは、「本来の覚性」を意味し、一切の衆生には本来、仏性(悟りの智慧)を備えていることを意味します。この思想を表す言葉「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ」は、人間のみならず草木や国土にも仏性があるとします。
この思想はインド仏教にはなく、中国を起源として日本で特に発展した仏教思想であり、時代を経るごとに他の教理と結び付けられ、新たな解釈を生んでゆきます。すなわち浄土教などの、人間は本来、仏であるのだから修行する必要も戒律も必要なく、念仏を唱えるだけでよいというような独自の解釈です。
「比叡山・延暦寺」は天台宗の総本山として栄えた
天台宗の本山寺院である比叡山・延暦寺は平安仏教の中心地となり栄えました。その後、延暦寺は多くの名僧を輩出します。日本天台宗の基礎を固めた円仁、浄土宗の開祖である法然、浄土真宗の開祖である親鸞、曹洞宗の開祖である道元、日蓮宗の開祖である日蓮など、鎌倉新仏教の開祖や、日本仏教史で重要な功績を残した多くの僧が比叡山で修行しました。
■参考記事
「法然」の思想とは?その生涯や弟子の親鸞との違いも解説
まとめ
最澄は天台の教義を中国から持ち帰り、さらに独自の思想や禅、密教などを総合させた日本の「天台宗」を成立させました。予想外だった密教の求めに応じきることができず、年下の空海に教えを乞うなど、密教における勝敗はついていましたが、その後の「天台宗」と「真言宗」の発展においては、その勝敗は逆転してゆきました。そのような二人のドラマとともに平安仏教は発展し、こののちの鎌倉新仏教が展開する礎となったのです。