「白河天皇」は何した人?院政開始のいきさつと平清盛との関係も

平安時代よりはじまった「院政」は日本史を学ぶ上でも重要なキーワードですが、そのはじまりをつくったのが「白河天皇」です。「白河天皇」が在位した時代をはじめ、譲位と院政のいきさつについて解説します。また、”白河天皇”と”白河法皇”という呼び名の違いや平清盛との関係についても触れています。

「白河天皇」とは?時代と系図

「白河天皇」は日本の第72代天皇

「白河天皇(しらかわてんのう)」は日本の第72代天皇です。在位は1073年〜1087年、時代でいうと平安時代になります。

「白河天皇」は後三条天皇の第一皇子

「白河天皇」は後三条天皇の第一皇子「貞仁(さだひと)」として生まれました。母は藤原茂子で、藤原能信の養女です。父である後三条天皇からの譲位を受け、20歳で即位しました。

「白河天皇」といえば院政、子供には次代の堀河天皇

「白河天皇」の子供には、次代の天皇となった「堀河天皇」がいます。「白河天皇」の在位期間は14年ほどとそう長くはありませんが、「白河天皇」は譲位後も43年もの間太上大臣として院政を行ったことで知られています。

「後白河天皇」は第77代天皇で別人

歴代の天皇には「後白河天皇」もいますが、「白河天皇」とは異なります。

「後白河天皇」は第77代天皇で、1155年〜1158年に在位した人物です。鳥羽天皇の第四皇子として生まれた「後白河天皇」は、譲位した後には34年もの間院政を行ったことで有名です。

「白河天皇」は何した人?

「白河天皇」は若くして8歳の息子に譲位

「白河天皇」は在位中は摂関家ではなく天皇が政治を行う親政を目指し、荘園の整理などにも力を入れていました。一方で、「白河天皇」が即位した際に異母弟の実仁親王が皇太弟(次期皇位継承者)となっていたことから、このままでは自分の子孫に確実に皇位を継承することが難しいことを懸念します。そこで、わずか8歳の息子善仁親王を皇太子にたて、即日に譲位したとされています。これにより、第73代「堀河天皇」が誕生します。

当初は親政を目指していた「白河天皇」でしたが、善仁親王の母が藤原師実(ふじわらのもろざね)の養女であることから、藤原氏が天皇家の外戚となり、結果的に摂関政治への回帰となったとも言われています。

「白河上皇」として1086年に「院政」を開始する

1086年の堀河天皇の誕生により、「白河天皇」は「白河上皇」となります。そもそも「白河上皇」は政権を握るために譲位したわけではありませんでしたが、幼い天皇は上皇の後見なしでは執政もままならず、他の勢力への牽制のためにも「白河上皇」による院政が始まったとされています。同時に、「白河天皇」の代から摂関についた藤原師実も後見に当たりました。

「院政」の本格的な権力集中は第74代鳥羽天皇の時代

「白河天皇(白河上皇)」がスタートした院政はその後100年余り続きますが、院政に本格的に権力が集中したのは第74代鳥羽天皇の時期とされています。「白河天皇」の孫にあたる鳥羽天皇は即位時には5歳と幼かっただけでなく、その摂政となった藤原忠実も若く未熟であったことから、結果的に「白河上皇」に権力が集中したようです。

なお、「白河上皇」はその後も第75代崇徳天皇の代まで3代43年にわたり院政を司りました。天皇を超越した政治権力を行使する様は後世、「治天の君」とも呼ばれます。

「白河天皇」のエピソード

「白河天皇」は出家したことで白河法皇と呼ばれる

「白河天皇」は上皇として活躍した時代が長いことから「白河上皇」の名前で登場することが多いです。加えて「白河法皇」と言う呼び名もあります。

「白河天皇」は熱心に仏教を信じ、1096年の皇女の病死を機に出家しています。「白河法皇」という名で呼ばれることがあるのはこのためです。「白河天皇(白河法皇)」の仏教にまつわるエピソードでは「殺生禁断令」も挙げられます。浄土信仰に傾倒した白河法皇は生き物の殺生をタブーとし、漁猟さえも禁じたと言われています。

白河の地に「法勝寺」ほか、多くの寺院を建立

「白河法皇」は多くの寺院を建立したことでも有名です。中でも「法勝寺(ほっしょうじ)」は平安京の東、白河の地に建てた寺院で、1076年「白河天皇」の頃に造られました。ほかの六勝寺(いずれも名に”勝”がつく6つの寺院)のなかでも、最初にして最大の寺として知られています。

「白河法皇」の武家の登用でも知られる

「白河法皇」は当時力を持っていた延暦寺や興福寺からの僧兵を恐れ、武家出身者を臣下としたり、「北面の武士」として警備隊を配置させることで僧兵からの強訴を防いでいました。こうした武家の重用が、後に平家の地位を向上させ平清盛らによる武家政権確立へとつながったともされています。

「白河法皇」は平清盛の父とする説も?

武家の重用によって平家の地位を押し上げたとも言われる白河法皇ですが、一方で「白河法皇」が平清盛の本当の父親ではないか、とする説もあります。

平清盛の母とされるのは祇園女御(ぎおんのにょうご)という人物で、彼女は元々白河法皇に仕えていました。この祇園女御を、白河法皇を害した僧侶を捕えた褒美として、平忠盛(清盛の父)に妻として与えます。しかしこの時、祇園女御はすでに白河法皇の子を身籠もっており、それが後の平清盛である、とも言われているのです。

他にも平清盛の母は、産んだ後すぐに亡くなった祇園女御の妹であり、それを引き取ったのが祇園女御である、という説も有名です。ただし、いずれも確実な根拠があるわけではありません。

まとめ

「白河天皇」は平安時代の天皇のひとりで、上皇となり院政をスタートした天皇として知られています。子である堀河天皇をはじめ3代先まで上皇として政治の実権を握りました。剛腕な一面もあり、加茂川の水と双六の賽、山法師以外は全て自分の思い通りになるとして意のままに操ったというエピソードも有名です。

また、武家を臣下としたことでも知られ、「白河天皇」が平清盛の本当の父ではないかとする説もありますが、その確かなところはわかっていません。