歴代の天皇の中には「重祚(ちょうそ)」といって2度天皇として即位する例がありますが、まさに「称徳天皇」もそのひとりです。「称徳天皇」が重祚した経緯や「称徳天皇」と仏教を重んじた道鏡との政治について解説します。また「称徳天皇」の次の天皇についても触れています。
「称徳天皇」は何時代?在位と系図
「称徳天皇」の在位は764年~770年、奈良時代の天皇
「称徳天皇」は第48代天皇で、在位は764年~770年です。時代でいうと奈良時代に該当し、「称徳天皇」と書いて「しょうとくてんのう」と読みます。
父は聖武天皇、母は光明皇后
「称徳天皇」の父は聖武天皇、母は光明皇后です。光明皇后は、藤原氏の出身ではじめて人臣から皇后となった人物でもあります。「称徳天皇」は即位前の名(諱)を「阿倍内親王」といい、いわゆる女性天皇です。
「称徳天皇」は「孝謙天皇」と同一人物
「称徳天皇」の即位は764年と先述しましたが、実は「称徳天皇」として即位する以前に第46代孝謙天皇として即位しています。一旦は皇位を譲り太上天皇となったのち、再度「称徳天皇」として即位したのです。このように、再び天皇となることを「重祚(ちょうそ)」といいます。歴代の天皇のうち、「孝謙天皇」と「称徳天皇」は名前は違えど同じ人物なのです。
「称徳天皇」の即位のいきさつ
「孝謙天皇」としての在位は749年~758年
「称徳天皇」として即位(重祚)するいきさつの前に、まずは孝謙天皇としての歴史から紹介しましょう。
阿倍内親王は749年、第46代天皇「孝謙天皇」として即位します。孝謙天皇は仏教の信仰が篤かったことで知られ、聖武天皇発願だった東大寺大仏開眼会を執り行ったことも有名です。しかし、病の光明皇太后に仕えること、また従兄であり時の権力者であった藤原仲麻呂の進言により「淳仁天皇」に譲位します。これにより、自身は太上天皇(上皇)となりました。
道鏡を寵愛したことで「恵美押勝の乱」が起こる
孝謙天皇の下で力をもった藤原仲麻呂は、人臣として史上初の太政大臣にまで上り詰めますが、この背後には光明皇太后からの後ろ盾がありました。しかし、光明皇太后が亡くなり、同じ頃に孝謙上皇(太上天皇)が祈祷によって病から救ってくれた道鏡を優遇し始めたため、仲麻呂は焦りを覚えます。
そこで淳仁天皇を通じ、孝謙上皇(太上天皇)に道鏡との間柄を諫めるのですが、これが孝謙上皇の怒りに触れてしまい事態は急激に悪化します。孝謙上皇は出家し、道鏡への信頼を強めるとともに淳仁天皇と藤原仲麻呂を抑圧するようになったのです。
これに反発した藤原仲麻呂が軍事力をもって政権奪取を試みたのが「藤原仲麻呂の乱」です。なお、藤原仲麻呂は淳仁天皇に「藤原恵美朝臣」の姓と「押勝」の名を与えられていたことから「恵美押勝の乱」とも呼ばれます。
淳仁天皇を退位させ重祚、「称徳天皇」に
藤原仲麻呂による政権クーデターは、結論から言うと失敗に終わります。仲麻呂たちの動きは上皇側へと密告されていたことから、徹底的に軍は鎮圧されたようです。これにより藤原仲麻呂の勢力は政界から一掃、淳仁天皇は廃位され島へと流されます。そして孝謙上皇自らが再即位=重祚する形で「称徳天皇」として即位するに至ったのです。
「称徳天皇」の政治
「称徳天皇」は仏教中心の政治、道鏡を法王に
「称徳天皇」の政治は仏教を重視したものでした。中でも道鏡が「太政大臣禅師」として政治権力のトップとなったことは特筆すべき点で、その後は「法王」となり仏教の頂点となります。法王は宗教上は天皇よりも高い身分となることから、仏教中心の政治体制・政治展開であったことがうかがえるでしょう。
天皇より高いともいえる地位にあったことから、道鏡は一時皇位簒奪を目論みます。これは「宇佐八幡宮信託事件」と呼ばれ、当初は宇佐八幡宮のお告げによって天皇になれるはずだった道鏡でしたが、実際に届いたお告げは全く反するものでした。これにより道鏡の皇位への道は閉ざされます。
「西大寺」を建立したことでも知られる
「称徳天皇」は西大寺を建立したことでも知られています。もともと藤原仲麻呂の乱の勝利を祈願して四天王像の造立を発願しており、その願い通りに勝利したことから寺院を建立します。それが西大寺です。
「称徳天皇」の人柄・性格は否定的に書かれることが多い
「称徳天皇の人柄は?」というと、あまりよい印象を持たれないことが多いです。たとえば、自らに反抗した者や謀反を企てた人物に対し卑しい名を命名した、という行動もその理由のひとつです。また、重用した道鏡が“怪僧”と呼ばれたことも「称徳天皇」の否定的なイメージにつながっています。
また、重用し寵愛したとされる道鏡が皇位簒奪を目論んだことはさすがの「称徳天皇」も許すことができず、その治世は政治腐敗を招いた孤独な時代ともいわれています。
「称徳天皇」の次の天皇は?
770年に崩御、次の天皇は「光仁天皇」
「称徳天皇」は770年に崩御するまで生涯を通して独身だったためこどもはおらず、また皇太子を立てないまま崩御しています。天武系の皇族が少なくなっていたこともあり、白壁王が立太子され、第49代天皇「光仁天皇(こうにんてんのう)」が誕生します。
白壁王あらため「光仁天皇」は、天智天皇の第七皇子「施基親王(志貴皇子)」の第六皇子です。妃となった井上内親王は聖武天皇の第一皇女にあたります。
「称徳天皇」亡き後、道鏡は失脚
「称徳天皇」の崩御後、先の宇佐八幡宮信託事件などの影響もあり、唯一の後ろ盾だった人物を失った道鏡の権力は低下、失脚しました。その長年の功績から処刑こそまぬがれたものの、下野国に流されそこで亡くなったとされています。
まとめ
「称徳天皇」は第48代天皇で、第46代天皇だった「孝謙天皇」が譲位後、再度即位(重祚)する形で誕生しました。一度は皇位を譲り太上天皇となったものの、淳仁天皇と藤原仲麻呂から道鏡との関係を諫められたことをきっかけとし関係が悪化、政権をかけた「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)」が勃発します。この政権争いに勝利し、再即位をした「称徳天皇」ですが、その治世は混乱を極め、“孤独な女帝”として紹介されることも少なくはないようです。