近年、ビジネスパーソンが身につけるべき教養として中国古典の経書(けいしょ)が見直されています。その中でも『中庸』は道徳的な行動の基準を具体的に示すものとして、長く読み継がれてきたものです。
孔子の説いた「中庸」の概念と、経書『中庸』で説かれている教えの概要を解説します。ぶれない心をつかむためのヒントになれば幸いです。
「中庸」とは?
「中庸」は儒教用語
「中庸」とは、孔子を始祖とする「儒教」において徳の概念を表す言葉です。儒学を学ぶときの四書として定められた『中庸』という経書のタイトルにもなっています。四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』で構成され、『中庸』は最後に学ぶべき書とされています。
『中庸』は孔子の孫である子思(しし)によって作成されたとされています。孔子はその思想を体系的に語ることはしませんでしたが、子思は孔子の教えを理論的にまとめ、学問として体系化しました。
「中庸」の意味はかたよることのない中の道
「中庸」は孔子が最高の「徳」として説いた概念です。「中庸」は、かたよることのない「中」をもって道をなすという意味です。
また、「極端に多すぎることは少なすぎることと同じくらいによくない」という意味のことわざである「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の出典は『論語』にあります。この言葉も孔子が中庸の徳を説いた言葉として知られています。
「中庸の徳」は徳の最高指標
孔子の言葉に「中庸の徳たるや、それ至れるかな」があります。どちらにも片寄らない中庸の道は徳の最高指標である、ということを述べています。
「具体的にどのような道が中庸の道なのか」については、孔子の言葉を解釈し、具体的な行動に落とし込んでゆく必要があります。
解釈の仕方には幅があるため、経典が難解だとされる原因でもありますが、逆にその幅があることが、教えの普遍性を保っているものであるともいえます。また、その意味を考えることが思考の訓練であり、学びそのものでもあるといえるでしょう。
読み方は「ちゅうよう」
「中庸」の読み方は「ちゅうよう」です。
『中庸』の教えとは?
ここからは、孔子の説いた「中庸」の概念を学ぶ書である『中庸』の内容をみてゆきます。
「中庸」の意義は「天命を知る」
「中庸」を学ぶ意義として「天命を知る」という考え方があります。『中庸』の最初には、まず天命について書かれた一節がありますので、その書き下し文と解説を紹介します。
天の命これを性といい、性にしたがうこれを道といい、道を修むるこれを教えという。
天が人に授けたものが人の本性であり、その本性に自然に従うことを人の道という。人が歩まねばならない道を修めるのが教育である。
人が人として完成するためには、天から与えられた性を育てて向上させる必要があります。道とは目標に到達するための歩みの過程のことです。道を外れると、性を発揮することができません。その道を学問によって学ぶのです。ということを言っています。
『中庸』はこのように天命に従う人の道を説いており、中庸を学ぶ意義は天命を知ることであるといえます。なぜなら、天命、つまり自分が生まれながらにして与えられている生きる意味を知らなければ、進むべき道もつかむことはできず、踏み外してしまうからです。
天命を知れば道がひらける
孔子は、自分自身を知ることの大切さを次のように説いています。
ただ天下の至誠のみ、よくその性をつくすことを為す。よく人の性をつくせば、すなわちよく物の性をつくす。
もっとも至誠のある人のみが、自分がどのような人間であるのかを知っている。自分の個性を知れば、他人のこともよくわかり、それを発揮させようとする。そうすると、万物の性もよくわかるようになる。
ここでいう「至誠のある人」とは、儒教がめざす最も完成された人である「聖人」を指します。「誠」も中庸の徳の概念ですので次に説明します。
中庸の徳とは根幹に「誠」という概念がある
「中庸」の哲学の根幹に「誠」という概念があります。「誠」とは、自分にとっても、他人にとっても、嘘偽りのない心、つまり「真心」のことです。孔子は、嘘偽りのない心こそが天の道であると説いています。誠について書かれた次の句を紹介します。
誠は天の道なり。これを誠にするは、人の道なり。誠は勉めずして中(あた)り、思わずして得、従容(しょうよう)として道に中るは聖人なり。これを誠にするは、善をえらびて固くこれを執る者なり。
誠というものは天の道である。天の道を素直に受けるのが人の道である。真に誠の人は、特に勉強したり思索したりしなくても正道を得ることができる。ゆったりと構えて道をすすむのが聖人というものだ。誠の人となろうとする者は、善の道を選んで、それを固く守るものである。
この「従容として道に中るは聖人なり」の境地を表したのが、『論語』にある孔子の有名な言葉「七十にして心の欲するところに従えどものりをこえず」なのです。
孔子は十五歳のときに立派な人間になることを決意して学問を始め、七十歳にしてようやく、自分の思うままに言動しても道理に背かないものになった、と言っています。
このように、自分の思うままにふるまっても道徳を外れることがない、自由な境地を獲得することが、『中庸』を学ぶ目的であるといえます。
「中庸」の倫理を例文で紹介
『中庸』に書かれた倫理の教えを書き下し文と解説文で紹介します。どのような生き方が「中庸」であるのかが、具体的に示されていますので、参考にしてください。
和すれどもしかも流せず
人々と調和を保ちながらも、世間一般の風潮に流されないことが大切だ。
人をもって人を治む
人間の道をもって人間を治めることが最上の政治だ。
遠きに行くには必ずちかきよりす
遠いところに行こうとするには、必ず近いところから第一歩をはじめることが大切だ。
高明を極めて中庸に道(よ)る
高く明らかな学問や行為を極めたとき、それを実行したり発表したりするには平凡な形がよい。
愚にして自ら用うることを好む
愚かなものは自分の意見を強く主張する。そのような人間には災いがその身に及ぶものだ。
己を正しくして人に求めざれば、則ち怨み無し
自分自身を正しくして人に求めることをしなければ、怨むこともない。
上天のことは声もなく臭いもなし
天の仕事には言葉も姿もないが、その無為の中で大きな仕事をしている。人もそれにのっとるべきだ。
儒教用語以外の「中庸」
「中庸」は一般的に「どちらにもかたよらず、中正なこと」という意味でも使われます。その他にも、哲学用語の訳語として中庸があてられている言葉があります。
アリストテレスの「中庸」
古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスの思想を著した『ニコマコス倫理学』において、「中間」の意味を持つメソテースという言葉が英訳では「Golden Mean」と訳され、日本語訳では儒教用語を用いて「中庸」と訳されています。
アリストテレスは中庸の概念を重要なものだと考えており、倫理的な徳は、超過と不足を避けた行為、つまり中庸を選ぶことにあると述べています。中庸とは、バランスの取れた状態であり、超過も不足もしていない状態のことで、例えば無謀と臆病の中間が勇気であるなどです。
孔子とアリストテレスは最高の善を実行することにより幸福を生み出すことを主張し、それが政治論に発展していくという意味で共通しているといえます。
「中庸」の英語表現とは?
「中庸の徳」を英語で表す時は「the golden mean」
最後に「中庸」の英語表現を紹介します。
「経書の中庸」は「Doctrine of the Mean」といいます。哲学的な意味での「中庸の徳」を表すときは「the golden mean」が使われます。
また、極端に走らず、節度のあることを意味する中庸は、「temperance」「moderation」などが使われます。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を英語で表現すると、次のようになります。
「More than enough is too much」
まとめ
儒教用語の「中庸」とはどちらにも片寄らない中の道のことです。抽象的な概念のため、言葉で読むだけではその意味をつかむことは難しいですが、「中庸」をどのように実践するかという視線で『中庸』を読み、なにかひとつを実際に行ってみることで理解がすすむものだといえます。
「過ぎたるは及ばざるが如し」ちょうどよいところで行動できる人が最高の人徳である、ということの本当の意味をつかんでみたいものです。
■参考記事
「儒教」の教えや儒教思想とは?意味や特徴をわかりやすく紹介
「孔子」の思想と論語の名言を解説!孔子の生涯や日本との関係も