「孔子」の思想と論語の名言を解説!孔子の生涯や日本との関係も

孔子の言葉をまとめた『論語』は日本人の思想に大きな影響を与え続けていますが、「孔子」とはどのような人物だったのでしょうか?ここでは「孔子」その人に焦点をあて、さらに、孔子の『論語』と日本とに関係について解説します。『論語』を読むための知識として参考になれば幸いです。

「孔子」と『論語』

まずはじめに「孔子」と『論語』の概要を紹介します。

孔子の思想は『論語』にまとめられる

孔子の言葉を孔子の死後に門弟たちがまとめたものが『論語』です。「論」は論議、「語」は答述という原義があり、『論語』とは孔子の論議と答述を記録したものです。

『論語』は「儒教」の経典

論語は儒教の経典で、孟子の漢の時代に国教とされて正式に認められることとなります。孔子の説いた儒教思想は孔子の弟子から弟子に伝わり、その教義や学説が深められてゆきました。

「儒教」の思想の中心は「仁」

儒教の思想の中心に「仁」の概念があります。「仁」は最高の徳であり、人を思いやり、慈しむ心とされています。仁があれば、おのずと道徳は保たれ、社会が安定すると孔子は説きました。

■参考記事
「儒教」の教えや儒教思想とは?意味や特徴をわかりやすく紹介
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孔子の主な弟子は「曾子」「子夏」「子貢」

『論語』は弟子との問答が書かれているため、多くの弟子たちが登場します。中でも「曾子」「子夏」「子貢」の登場回数が多いようです。

「曾子(そうし)」は孔子の孫の子思(しし)が師事した人です。子思からは孟子に教えが伝わりました。「子夏(しか」は学問を好み、「孔門十哲(こうもんじってつ)」の一人です。「孔門十哲」とは、孔子の弟子の中で最も優れた十人のことをさします。「子貢(しこう)」は実業家としても腕をふるい、また「孔門十哲」の一人です。

「孔子」は英語で「Confucius」

孔子は英語で「Confucius」といいます。儒教は孔子の教えという意味の「Confucianism」といいます。

孔子の生涯とは?

孔子の生涯は苦難の連続だった

孔子は紀元前551年(または552年)に、今の中国の山東省のあたりにあった魯(ろ)の国に生まれますが、父親は早くに亡くなり、貧しい母子家庭で苦労して育ちます。

母親は巫女であったとされ、当時の身分社会の中で後ろ盾がないまま、成人してからは自らの力で人生を切り開いてゆきます。下級役人から徐々に出世して政界に入りますが、若い頃から高い知性とカリスマ性もあったことから、孔子のもとには門弟がたくさん集まりました。

しかし50代の時に政治で失脚して亡命することになり、13年間諸国を遊説して歩きます。69歳で祖国に戻りますが、政界に返り咲くことはなく、74歳で他界するまで門弟を教え、私塾を開いて弟子を育てました。

孔子には3千人の弟子がいたともされ、高い人間性に加えて強いリーダーシップも備えていました。また外見的にも身長が2メートルに近く、スポーツマンであったとともされていることから体格もよく、理想のリーダー像を地で行くような人だったことが想像できます。

また孔子は結婚し、子供も設けました。しかし孔子よりも子供が先に亡くなったことはわかっていますが、家庭生活について詳しいことはあまり伝わっていないようです。

そのようなことから、孔子の人生は表舞台に立って活躍した生涯というわけではありませんでしたが、苦難の連続が孔子の人間性にさらに深みを与え、孔子の言行録である『論語』が二千五百年の時を超えても色あせない、人生の本質を語ったものであることのゆえんではないでしょうか。

孔子が自分の人生を語った言葉を紹介

孔子が自分の人生を語った有名な一節を、書き下し文と現代語訳で紹介します。

【十有五にして学を志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳したがう。七十にして、心の欲するところに従えども、のりをこえず。】
わたしは十五歳のとき聖人を習得する学を志した。三十歳になったとき、精神的にも経済的にも独立することができた。四十歳で自分の人生に惑いがなくなった。五十歳で天命を与えられたことを自覚した。六十歳となり何を聞いても抵抗感も驚きもなくなった。七十歳となってからは、心のままに言動しても、決して道徳的規範を外れることはなくなった。

学問とともに生き、74歳で生涯を閉じた孔子でしたが、最後には心のまま自由に生きる境地に達した清々しさがうかがえる言葉です。

『論語』と日本の関係は?

次に『論語』と日本の関係について説明します。

日本には応神天皇の時代に伝わった

『日本書紀』によれば、『論語』は応神天皇の時代の西暦285年に百済から献上されたとされています。日本最古の書である『古事記』は712年にできたため、論語は日本人が手にした最初の書物であることになります。

また、西暦604年に制定された聖徳太子の十七条憲法の「和をもって貴しとなす」の言葉は、『論語』にある「和を貴しと為す」をもとにしているといわれています。

江戸時代には武士の必読の書となった

知識層の間で論語は読まれ続け、江戸時代には儒学である「朱子学」を幕府が正式な学問として採用したことから、論語は武士の必読の書となります。

明治時代には「教育勅語」に反映され、軍国主義に利用された

明治時代になると、明治天皇が道徳に関心を寄せていたことから、明治天皇の勅語である「教育勅語」が発布されます。「教育勅語」は日本の伝統的な規範や価値観をベースにして、儒教の教えを反映させた道徳教育の教科書です。

しかし、第二次世界大戦中には教育勅語は天皇が与えた国民思想の基礎として神聖化され、その本来の趣旨から離れて軍国主義に利用されるようになります。敗戦後の昭和21年には教育勅語の朗読と神格的な扱いが、連合軍総司令部(GHQ)により禁止されます。

近年は再び注目されている

戦後の経緯から、『論語』は封建的な過去の遺物とされ、戦後世代には忘れられたかにみえました。しかしその後の行き過ぎた資本主義の反省と、道徳や倫理の乱れに対する危機感から、近年、論語は再び注目されています。

また、明治時代の代表的な実業家である渋沢栄一が論語をビジネスの基本としたことは有名ですが、現代の実業家やビジネスパーソンの愛読書として論語は読み継がれています。

論語の「名言」を紹介

書き下し文と現代語訳で紹介

最後に、『論語』から名言を書き下し文と現代語訳で紹介します。

【子曰く、学びて時に之を習う、またよろこばしからずや。朋あり遠方より来る、また楽しからずや。人知らずしていきどおらず、また君子ならずや。】
師がおっしゃった。学問を続け、何度も復習すれば学んだものは自分のものとなって喜ばしいことだ。さらに近くの友だけでなく、遠方からも訪ねて来て語りあうことは人生の楽しみである。また学問が成就して世間に認められなくとも怨んだり咎めたりしない人を立派な人というのだ。

この句は『論語』の最初の一節です。人の道を学問によって学ぶことで人生が充実することこそ最大の歓びであるとする、孔子の人生におけるテーマを語ったものです。

【古きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし。】
古くからの教えを学び、そこに新しい解釈を得るのがよい。それができれば人を教える師となることができる。

よく知られた「温故知新」の出典となった言葉です。孔子は学問の大切さを繰り返し弟子に伝えており、ここでは温故と知新という学びのポイントを説いています。

【過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。】
ゆきすぎることはやり足りないことと同じようによくないことだ。

こちらも「過ぎたるは及ばざるがごとし」の故事成語で有名な言葉です。孔子の大切にしていた「バランス感覚」である「中庸(ちゅうよう)」を説く言葉です。「中庸」の概念も孔子の思想の核にあるものです。

【「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず。】
知のある者は惑わない。仁のある者は思い悩まない。勇気のある者は恐れない。

知と仁と勇が人生には大切だと説いています。孔子が大切にした「仁」の概念は先に述べたとおりです。

■参考記事
「中庸」の意味とは?「中庸の徳」や孔子の教えも例文で解説!

まとめ

今から二千五百年前に生きた「孔子」の思想には、「仁」という思いやりを核として、学問を続けることの大切さや楽しさが根底にありました。古くからその思想は日本にも大きく影響を与え続けています。

また近年は、『論語』をリーダー論として読む人が多くなっています。孔子のような、まっすぐで強いリーダーは不在だということかもしれません。

■参考記事
孔子を祖とする儒家集団は「諸子百家」の中心となって活躍しました。

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