「ドラクロワ」とはどんな画家?『民衆を導く自由の女神』も解説

「ドラクロワ」といえば、混沌の中でフランス国旗を掲げる女性が描かれた絵画『民衆を導く自由の女神』が有名です。この記事では、ドラクロワとはどんな画家なのか、そして自由の女神は何を意味しているのかについて解説します。その他の代表作品や友人であったショパンの肖像画も紹介しています。



「ウジェーヌ・ドラクロワ」とはどんな画家?

ドラクロワの自画像(1837年)ルーヴル美術館
(出典:Wikimedia Commons User:Raoli)

「ドラクロワ」は19世紀フランス・ロマン主義を代表する画家

ウジェーヌ・ドラクロワ (1798年~1863年)は、19世紀フランスのロマン主義を代表する画家です。力強い色使いと表現豊かな筆遣いで激しい感情を表現しました。

古代ギリシャ・ローマ芸術を規範とする様式美を追求した古典主義や新古典主義に反して、ロマン主義は感じたままを表現します。ロマン主義を代表するドラクロワの作品は、印象派や近世の芸術家たちに大きな影響を与えました。

新古典主義のアングルと生涯対立した

ドラクロワが台頭する以前の絵画界では、新古典主義が理想的な絵画だとされていました。ドミニク・アングル(1780年~1867年)は、ナポレオン・ボナパルトの庇護を受けて肖像画などを手掛けたダヴィッドから新古典主義を継承し、ナポレオンの失脚とともに没落したダヴィッドにかわって新古典主義を守っていました。

伝統の擁護者で線と調和を大切にしたアングルと、革新的で情熱を込めるために色彩を大切にしたアングルは、生涯にわたって対立しました。二人の巨匠の輝きは現在も称賛され、ルーヴル美術館の同じ部屋に、アングルの傑作『グランド・オダリスク』(1814)と、ドラクロワの傑作『民衆を導く自由の女神』(1830年)が展示されています。

『民衆を導く自由の女神』に込められた意味とは?


『民衆を導く自由の女神』(1830年)ルーヴル美術館
(出典:Wikimedia Commons User:Crisco 1492)

ナポレオンが没落したあとに起こった「7月革命」が主題

『民衆を導く自由の女神』(仏: La Liberté guidant le peupl)は、1830年7月に起きたフランス7月革命を主題としています。

ナポレオンが没落したあとのフランスでは、経済的な圧迫や言論弾圧などが行われ、民衆が不満を募らせていました。ついに市民は三色旗を翻して宮殿や政府の施設を襲撃し、復古王政のブルボン朝が打倒されるフランス7月革命が起こったのです。

絵の前面には犠牲となった民衆が横たわっています。自由を象徴する三色旗を持つ女性は自由と祖国の象徴であり、犠牲を出しながらも民衆を率いて力強く突き進んでいます。ドラクロワは民衆の自由と自我を描きました。

ドラクロワは、本作品のように、実際に起こった出来事を人々に訴えかけるドラマチックな歴史画を多く手がけました。

描かれた「自由の女神」はジャンヌ・ダルクではない

『民衆を導く自由の女神』に描かれた中央の女性は、15世紀のフランス百年戦争で果敢に戦ったフランスの国民的ヒロインであるジャンヌ・ダルクのイメージと重なるため、この絵の主題がジャンヌ・ダルクだと勘違いしている人も多いようです。また、18世紀末に起きた「フランス革命」が主題の絵だと感じる人もいるかもしれません。

実際のところ、『民衆を導く自由の女神』の女性は、フランスのシンボルとして硬貨や切手などに描かれる架空の女性「マリアンヌ」がモデルです。マリアンヌはフランス共和国を擬人化した、国家を象徴する女性像です。

ちなみに、アメリカ独立100周年の記念にフランスから贈られたニューヨークの自由の女神像は、『民衆を導く自由の女神』のマリアンヌをモデルにして作られたものです。

「ドラクロワ」の代表作品を紹介

・同時代の事件を描いた『キオス島の虐殺』(1824年)

(出典:Wikimedia Commons User:Odysses)

『キオス島の虐殺』は、ギリシャ独立戦争(1821年~27年)のさなかに、東地中海のキオス島に上陸したトルコ軍が、住民を虐殺したり奴隷として連行したりした残虐な事件を主題としています。

出品したサロンでは、伝統的な様式でナポレオンの肖像を描き、古典主義派の寵児であったジャン・グロから「絵画の虐殺」と呼ばれ非難されました。しかし、作品は高く評価され国家に買い上げられ、現在はルーヴル美術館に収蔵されています。

グロは、ドラクロワに破れて自信を無くし、セーヌ河に身を投げて命を絶ちました。

友人のショパンを描いた『フレデリック・ショパンの肖像』(1838年)

(出典:Wikimedia Commons User:Hohum)

ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家ショパン(1810年~1849年)は、ドラクロワと深い親交を持っていました。フランス7月革命の翌年、ポーランドからパリに活動の場を移し、社交界のスターとなっていたショパンは、愛人関係にあった作家のジョルジュ・サンドを介してドラクロワと知り合います。

ドラクロワはショパンとサンドのダブル・ポートレートを描きますが、二人の破局ののち、絵は二つに切り分けられ、ショパンの部分はルーヴル美術館に、サンドの部分はデンマーク王立美術館に収蔵されました。

ショパンとドラクロワは生涯を通じて友人関係を結びました。ショパンは結核により1849年に亡くなりますが、その葬儀にドラクロワも参列しています。

まとめ

ドラクロワは、古典主義や新古典主義に反して安定した構図を捨て、躍動感や情熱を表現しました。その根底にはリアリズムがあり、実際に起きた事件をテーマに、ジャーナリストのような視点を持って歴史画を描きました。

ドラクロワのロマン主義絵画は、印象派やフォービスムに大きな影響を与えました。ルノワールは、ドラクロワの『アルジェの女たち』に魅了され、同じテーマの絵を描いています。

■参考記事
「ロマン主義」とは?成り立ちと絵画・文学・音楽及び作家も解説
「印象派」とは何か?絵画の特徴や代表的な画家と作品も解説

■参考書籍
平野啓一郎の『葬送』は、ドラクロワとの友情を絡めてショパンの半生を描いた長篇小説です。ショパンの葬儀にドラクロワが参列する場面から描かれています。