「レーニン」とはどんな人物?思想やトロツキーとの関係も紹介

ロシア第2の都市・サンクトペテルブルグは、ソビエト連邦崩壊までは「レーニン」にちなんでレニングラードと呼ばれていました。ソ連崩壊後に多くのレーニン像が倒されましたが、レーニン廟は今でも観光名所です。この記事では「レーニン」の人物像とともに、彼の思想やトロツキーとの関係についても紹介しています。



「レーニン」とはどんな人物?

「レーニン」は旧ソ連の建国の父

レーニン(Vladimir Il’ich Lenin)は、旧ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の建国の父とされる人物です。1917年に社会主義革命であるロシア革命を主導して史上初の社会主義政権を樹立、1918年に後の旧ソ連の中核となるロシア=ソビエト社会主義連邦共和国を建国しました。

2020年1月にはレーニンの没後96年を迎えますが、防腐処理されたレーニンの遺体が公開されているモスクワの赤の広場にあるレーニン廟は、今なお見学客の行列ができる人気スポットとなっています。

「レーニン」は学生時代からの革命家

レーニンは1870年に貴族の子として、ロシアのシンビルスク(現在のウリヤノフスク)に生まれました。子供のころから頭脳明晰で、シムビルスク古典中高等学校では全学年において全科目を首席で通し、卒業時に金メダルを授与されたほどでした。

ところが、1887年5月に兄(アレクサンドル・ウリヤノフ)がロシア皇帝暗殺計画に加わったため絞首刑にされたことをきっかけに、レーニンは学生活動に身を投じるようになったのです。

流刑・亡命を経て社会主義政権を樹立

その後、本格的に政治活動を展開したレーニンはシベリアへの流刑やスイスへの亡命を経て、1917年の二月革命後にドイツの協力を得て帰国します。

続いてロシア社会民主労働党の多数派・ボリシェビキを率いて十月革命を成功させ、史上初の社会主義政権を樹立しました。

1924年に脳梗塞で死去

1918年8月30日、レーニン暗殺未遂事件が起こりました。モスクワでの会合で演説後に、銃弾2発が彼の肩と肺に命中したのです。

一命はとりとめたもののこのときの負傷により健康状態が悪化し、1922年に脳出血で倒れてから数度の発作を経て、1924年に脳梗塞のため死亡しました。レーニンの遺体は死後すぐに保存処理され、現在もモスクワのレーニン廟で永久展示されています。

レーニンの思想とレーニン主義

レーニンの思想はマルクス主義の発展形

レーニンは、資本主義社会下でブルジョワジーに搾取されている労働者階級によって社会主義革命が起こると考えていたマルクスの思想を研究し、その理論をロシアに適用できるように発展させていきました。

労農同盟による革命で、帝国主義からプロレタリア独裁への大転換を目指したもので、第一次世界大戦からの離脱と産業の国有化や土地の分配を行い、労働者と農民が国の中心となる社会主義国家を樹立したのです。著書には「帝国主義論」「国家と革命」などがあります。

名言からわかるレーニンの思想

レーニンは数々の名言を語ったといわれていますが、思想をひとことで表したものとして「働かざる者、食うべからず」があります。

レーニンは党の機関紙「プラウダ」に寄稿した論文で「『働かざるものは食うべからず』は社会主義の実践的戒律」と述べ、不労所得を得ている資産家を厳しく戒めています。

レーニン主義はスターリンが言い出した

レーニン主義はレーニン自らが命名したものではなく、レーニンの死後にスターリンが「マルクス・レーニン主義」ということを言い出したものです。

レーニン自身は自分を熱烈なマルクス主義者としていましたが、レーニンの後を継いだスターリンが、自らの正当性を強調するためにレーニンの名前を前面に押し出したといえます。

レーニンとトロツキーとの関係

レーニンに見出されたトロツキー

トロツキーは、1879年に現在のウクライナで生まれました。マルクス主義に傾倒して政治活動を行っていましたが、逮捕や投獄、シベリア流刑も体験しています。

ロシア社会民主労働党の「イスクラ」紙で執筆していたころ、トロツキーはレーニンに見出されます。1917年の二月革命後、トロツキーはレーニンが主導する左派のボリシェビキに賛同し、十月革命後の1917年末には、レーニンに次ぐ地位にまで上り詰めたのです。

レーニンの死後はソ連から追放される

1922年にレーニンが脳出血で倒れると、スターリンが書記長に就任しました。トロツキーは徐々に発言力を失い、1927年に党から除名、1929年にはソ連から追放されてしまいます。

その後も転々と各国に亡命しながら革命運動を続けましたが、1940年にメキシコで暗殺されその生涯を閉じました。

レーニンの後継者になれなかったトロツキー

レーニンは亡くなる前に、「粗暴で独善的なスターリンは、書記長として望ましくない」という主旨の発言をしていたましたが、結局、レーニンの後に権力を握ったのはトロツキーではなくスターリンでした。

スターリンの「政治力」が優れていたことに加え、ヨーロッパ全体の革命を目指す「永久革命論」を主張していたトロツキーに対し、ロシア一国での社会主義国家建設を主張するスターリンの「一国社会主義論」が、多くの賛同を得たこともその理由です。

 

まとめ

「レーニン」の人物像とともに、レーニン主義に代表される思想やトロツキーとの関係についても紹介しました。ロシアが民主化を試みた90年代が失敗に終わったことから、再び強い指導者の台頭を期待する声は少なくないようです。

レーニン廟に安置されているレーニンの遺体が、これまで何度も埋葬されそうになりながらそのたび立ち消えとなっていることはその表れかもしれません。