「推古天皇」は、甥にあたる摂政の聖徳太子とともに歴史の教科書に登場する人物で、飛鳥時代の日本初の女性天皇です。父が天皇であるため男系の女性天皇で、現在取り沙汰されている女系天皇ではありません。
この記事では「推古天皇」の功績やしたことのほか、聖徳太子との関係を時代背景とともに紹介しています。
「推古天皇」とはどんな人?
「推古天皇」は日本初の女性天皇となった人
「推古天皇(すいこてんのう)」は日本の第33代天皇で、史上初の女性天皇となった人です。別名は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)で、第30代敏達(びだつ)天皇の皇后でした。
「推古天皇」が女性天皇になった経緯
敏達天皇崩御のあと即位した第31代用明(ようめい)天皇は、わずか2年ほどで崩御しました。この後の皇位継承で物部氏と蘇我氏の間で戦が起こりましたが、蘇我氏が勝利して崇峻(すしゅん)天皇が即位したのです。
しかし、崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺されたため、先々代の太后であった額田部皇女が39歳で即位し、ここに日本初の女性天皇が誕生しました。
「推古天皇」がしたこと
「推古天皇」は二頭政治を行った聡明な女性
崇峻天皇亡き後、「推古天皇」は息子の竹田皇子を即位させたかったのですが、まだ年若であったため即位させることはできませんでした。そこで竹田皇子が成長するまでの間に、中継ぎ的な天皇を望んでいたのです。
また、蘇我馬子は自身の権力を拡大するために、相応しい天皇(「推古天皇」は蘇我馬子の姪)を望んでいました。ここで両者の思惑が一致し、「推古天皇」が誕生したのです。
しかし、蘇我馬子の横暴を抑えたいと考えていた「推古天皇」は、聖徳太子(厩戸皇子)を摂政に任命し、蘇我馬子と二頭政治を行いました。これにより「推古天皇」は、蘇我馬子を統治に加えながらも権力を制御することに成功したのです。
「推古天皇」は飛鳥時代を築いた天皇
「推古天皇」は聖徳太子とともに「和を以て貴しと為す」で有名な憲法十七条のほか、世襲ではなく個人の功績と能力に応じて人材を登用する冠位十二階や国史の編纂、遣隋使の派遣、法隆寺の建立などを行い、飛鳥時代の代表的な位置を占める天皇となりました。
「推古天皇」は75歳で崩御しますが、次期天皇を指名していなかたったため再び後継者問題が起こり、日本は再び動乱の時期を迎えることになったのです。
「推古天皇」と聖徳太子の関係は?
聖徳太子は「推古天皇」の甥
聖徳太子は、「推古天皇」の甥にあたります。聖徳太子は第31代用明天皇の皇子ですが、用明天皇は「推古天皇」とともに第29代欽明天皇の子で、「推古天皇」の兄です。つまり聖徳太子にとって「推古天皇」は、父の実妹で叔母にあたります。
ちなみに第30代敏達天皇は「推古天皇」の夫ですが異母兄でもあり、暗殺された第32代崇峻天皇は「推古天皇」の異母弟です。
なお、この時代の家系図は現代人からは考えられないほどに複雑ですが、異母きょうだい間の結婚は普通に行われていました。
聖徳太子は蘇我馬子の甥で婿
聖徳太子の母つまり用明天皇の妻は、蘇我馬子の姉です。さらにもう一人の姉は用明天皇や推古天皇の母となっています。
したがって聖徳太子にとって蘇我馬子は、父方・母方の祖母の弟にあたるのです。加えて聖徳太子の妻のひとりも蘇我馬子の娘であることから、蘇我馬子は聖徳太子の舅でもありました。
蘇我氏がとった天皇と血縁関係を結ぶことで権力を強める手法は、後の藤原氏や平清盛にも引き継がれています。
「推古天皇」が活躍した時代とは
「推古天皇」から始まった中央集権国家建設
「推古天皇」が活躍した時代は、まだ豪族の勢力が強い状態でした。百済から釈迦仏像や経論などが伝わったことを機に排仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子との対立が激化し、587年の武力抗争(丁未の乱・ていびのらん)に勝利した蘇我氏の権力は、皇位継承に口を出すほどに強大化していったのです。
「推古天皇」は聖徳太子と蘇我馬子の二頭政治を行うことで、蘇我馬子の横暴を封じつつ中央集権国家の建設に努めました。これにより、当時の超大国・隋と対等の外交を行うことができるようになったのです。
「推古天皇」は神仏習合の元を作った人
「推古天皇」は、父である欽明天皇の時代に伝来した仏教を興隆させました。聖徳太子と共に、大阪の四天王寺や奈良の法隆寺など日本全土に寺院を建立する一方、「神祇禮祭の詔(じんぎれいさいのみことのり)」を発して神道も大切にしたのです。
手水舎のあるお寺や狛犬が置かれた神社のほか、家の中に神棚と仏壇の両方を祀るなど、仏教と神道が違和感なく同居する神仏習合のスタイルは「推古天皇」が元で、現在もみられます。
まとめ
「推古天皇」は、聖徳太子とともに中央集権国家を建設した日本初の女性天皇です。また、仏教と神道の異なる宗教が同居するという、世界的にも稀な信仰形態の元を作った人物でもあります。大国・隋や、国内の有力豪族との関係を調整するなど、バランス感覚に優れた有能な女性だったようです。