「天智天皇」は何した人?中大兄皇子や天武天皇との関係も紹介

「天智天皇」は、大化の改新や百人一首の歌でも知られている天皇です。短い在位期間でしたが、日本を中央集権国家にするために尽力しました。また、万葉集に収められた歌からは、弟の天武天皇と額田王との三角関係がうかがえます。この記事では「天智天皇」の業績のほか、天武天皇などとの関係についても紹介しています。

「天智天皇」は何をした人?

「天智天皇」は第38代天皇

「天智天皇(読み方はてんじてんのう)」は第38代天皇で、626年に生まれました。父である第34代舒明天皇と、母である第35代皇極天皇(重祚して第37代斉明天皇)の第二皇子です。

諱は葛城(かつらぎ)ですが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)としてよく知られています。在位期間は668〜671年と短いものでしたが、以下に紹介するように「天智天皇」には数多くの業績があるのです。

なお、琵琶湖西岸の近江大津宮跡にある近江神宮の御祭神は「天智天皇」で、時の祖神、開運・導きの大神として尊崇されています。

中臣鎌足とともに「乙巳の変」を実行

「天智天皇」がまだ中大兄皇子と呼ばれていた645年、中大兄皇子は皇極天皇の目前で、自ら蘇我入鹿を誅殺します。これが「乙巳の変(いっしのへん)」で、中臣鎌足らが協力しました。

外戚(天皇の母・妃の一族)として権力をほしいままにしていただけでなく、上宮王家(聖徳太子の一族)を滅ぼすなど、専横ぶりが目に余る蘇我入鹿でしたが、「乙巳の変」により蘇我氏の本家は滅亡しました。

「天智天皇」は大化の改新を行った人

「天智天皇」は、歴史教科書にも掲載されている「大化の改新(たいかのかいしん)」を行った人です。天皇による中央集権国家の設立を目指して「乙巳の変」の翌646年に「改新の詔」を発令し、律令国家の礎を築きました。

なお、これらの改革は第36代孝徳天皇(こうとくてんのう)のもとで皇太子として行ったもので、「天智天皇」として即位するのは飛鳥から近江・大津宮に遷都してから後のことです。

白村江の戦いで国防を強化

「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」は、663年に朝鮮南西部の錦江下流白江で行われた海戦です。

斉明天皇の百済救援を中大兄皇子が引き継いだもので、唐・新羅連合軍と戦いましたが日本軍は敗退し、百済は滅亡しました。

敗戦後は唐の侵攻に備え、博多湾を中心とした九州沿岸に水城(みずき)を築き、防人(さきもり)を派遣します。加えて大宰府(だざいふ)防衛のために大野城(おおのじょう)を建設するなど、国防を強化しました。

「天智天皇」の意外な一面

日本初の戸籍や時計を作った「天智天皇」

「天智天皇」は、670年に日本初の全国的な戸籍である「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作りました。また、日本で初めて時計を作ったのも「天智天皇」です。

『日本書紀』には6月10日に「天智天皇」が作った水時計(漏刻・ろうこく)が時の鐘を鳴らしたと記されており、この日は現在「時の記念日」となっています。

優れた歌人でもあった「天智天皇」

「天智天皇」は、優れた歌人でもありました。「万葉集」には4首の歌が収められており、百人一首の第一首として知られる歌も「天智天皇」の作となっています。

これは「万葉集」で「よみ人しらず」となっている歌が、時代を経て民を思う「天智天皇」の和歌となったとされているものです。

「天智天皇」の死因は?

「天智天皇」の死因は諸説あり

『日本書紀』によると671年10月に「天智天皇」は病に倒れ、672年1月7日に近江大津宮で崩御されたとされています。

しかし、平安時代の私撰歴史書『扶桑略記』によれば、「天智天皇」は狩猟に出かけた山科の森で、沓だけを残して行方不明になったということが著されているのです。

ほかにも天武天皇側による暗殺説や、九州からの刺客による殺害など、「天智天皇」の死因には諸説あります。

「天智天皇」のお墓は京都の山科に

現在、宮内庁により「天智天皇」のお墓(陵・みささぎ)は京都山科にある山科陵(御廟野古墳)とされており、形状は八角形です。古墳時代の終末期に作られ、京都にある天皇陵の中で最古のものとされています。

「天智天皇」と「天武天皇」の関係とは?

「天武天皇」は「天智天皇」の同母弟

「天武天皇」は、第40代天皇です。「天智天皇」の同母弟で、即位前の名前は「大海人皇子(おおあまのおうじ)」といいました。

668年に皇太子となり,兄である「天智天皇」とともに中央集権国家の建設に努めています。なお、「天武天皇」の妻であり後に第41代持統天皇となる鸕野(うの)皇女は、「天智天皇」の娘です。

「天武天皇」は壬申の乱を経て即位

「天智天皇」の次の天皇は、弟である大海人皇子が継承するはずでした。ところが「天智天皇」は、自身の長子である大友皇子(おおとものおうじ)に跡を継がせたいと考えたのです。

「天智天皇」崩御ののちに起こった跡継ぎ争いが「壬申の乱(じんしんのらん)」で、これにより大友皇子は自殺しました。なお、大友皇子は1870年に追諡(ついし)され弘文天皇(こうぶんてんのう)となっています。

「天武天皇」の妻は「天智天皇」の妻に

額田王は、「天武天皇」が即位する前(大海人皇子)の妻でした。その後、額田王は「天智天皇」の妻となっています。

このことは、万葉集に詠まれた三人の歌からもうかがい知ることができるでしょう。なお、「天智天皇」の息子である大友皇子の妻となった十市皇女は、大海人皇子と額田王の娘です。

まとめ

「天智天皇」は天皇としての在位期間が短期間だったこともあり、中大兄皇子の名前も良く知られています。歌人としても優れており、日本初の戸籍や時計を作りました。大化の改新は画期的な改革で、これにより日本天皇を中心とした中央集権国家としてまとまっていったのです。

同母弟の天武天皇とは協力して国を治めましたが、崩御の後に長子との間で跡継ぎ争いが起こり、壬申の乱となりました。