「聖武天皇」は何した人?東大寺の大仏や平城京からの遷都も紹介

「聖武天皇」は、仏教に篤く帰依し東大寺の大仏を造った奈良時代の天皇です。また、初の出家天皇であり、男性天皇として初めて譲位したことや、5年間に3度も遷都をしたことでも知られています。この記事では「聖武天皇」の業績のほか、意外と知られていない異例ずくめの生涯も紹介しています。

「聖武天皇」は何をした人?

「聖武天皇」は奈良時代中期の天皇

第45代「聖武(しょうむ)天皇」は奈良時代中期の天皇で、天武天皇の男系の孫にあたる人物です。父は第42代文武天皇、母は藤原不比等の娘である宮子で、701年に生まれました。

父の文武天皇が25歳で夭逝したため、中継ぎとして祖母が第43代元明天皇、伯母が第44代元正天皇として即位しています。なお、「聖武天皇」の母方の祖父である藤原不比等は、中臣鎌足の子です。

「聖武天皇」は初めて譲位をした男性天皇

「聖武天皇」は、724年に24歳で即位しました。その後749年に阿倍内親王(孝謙天皇)へ譲位したことにより、男性天皇として初めて譲位を行った天皇となったのです。

また、「聖武天皇」は仏教に篤く帰依しており、天皇として初めて出家したことでも知られています。

「聖武天皇」は東大寺の大仏を創った人

「聖武天皇」は、全国に国分寺や国分尼寺を建立し、それらの総本山として745年に東大寺の造営を命じるなど、仏教によって国の安寧を保ちたいと願っていました。

743年には、現在も奈良の大仏として親しまれている「廬舎那大仏(るしゃなだいぶつ)」を造立する詔を発し、752年に開眼を迎えています。なお、奈良の大仏は何度かの修復を経ており、造られた当時は現在のものより80cmほども大きかったようです。

「聖武天皇」が遷都した時代背景

突然平城京を捨てた「聖武天皇」

平城京は、710年に元明天皇が唐の長安をモデルに作った都でした。ところが「聖武天皇」は、740年の伊勢行幸のあと都に戻らず、恭仁宮(くにみや)・難波宮(なにわのみや)・紫香楽宮(しがらきのみや)を転々としながら政治を行うようになったのです。この期間を指して「彷徨五年」と呼ばれています。

伊勢行幸のあと、最初に遷都したのが京都の恭仁京でしたが、まだ都の造営が終わらない744年に大阪の難波宮へ遷都したのです。恭仁宮が都だった期間はわずか4年でしたが、この期間に「聖武天皇」は国分寺の建立や大仏建立の詔、墾田永年私財法の発布などの施策を行っています。

難波宮と紫香楽宮は極めて短命の都

難波宮は乙巳の変のあとに孝徳天皇が造った都でしたが、726年には平城京の副都にするため造営が始まっていました。しかし、ここに都が置かれた期間は1年にも満たず、745年の正月には滋賀県の紫香楽宮へと遷都したのです。

紫香楽宮は、恭仁京に都があったころから離宮として造営され始めており、当初はここに大仏の建立が予定されていました。ところが地震や火災などが相次いだため、745年5月に平城京へ都が戻されました。

災厄続きだった「聖武天皇」の時代

「聖武天皇」の時代は、729年の「長屋王の変」や740年の「藤原広嗣の乱」などの政変だけでなく、旱魃や地震による飢饉や疫病の蔓延など、災厄続きでした。

「聖武天皇」が自分の不徳にそれらの原因があると考えていたことは、大仏造立の詔にみられる「自分の力は十分ではないが、仏教の力で天地を豊かにし、万物が栄える世を創りたい」という意味の言葉からうかがえます。

「聖武天皇」が遷都を続けた理由には諸説ありますが、彷徨五年の間には鎮護国家のための施策が行われていることから、遷都が「聖武天皇」の気まぐれで行われたものではなかったようです。

「聖武天皇」の家系

「聖武天皇」の妻は叔母にあたる人

「聖武天皇」の妻である光明皇后(光明子)は、藤原不比等の娘です。「聖武天皇」の母である藤原宮子は光明皇后の異母姉にあたるため、「聖武天皇」は叔母と結婚したことになります。これにより藤原不比等は、天皇の母方の祖父であるとともに舅という立場になりました。

そもそも異例のものだった「聖武天皇」の即位

現在、皇位継承は父親を天皇にもつ男子に限られていますが、「聖武天皇」が即位するまでは母親も皇族であることが慣例となっていました。したがって、母親が藤原氏の娘である「聖武天皇」は、本来なら皇位を継承する立場にはなかったのです。

また、「聖武天皇」の妻も藤原氏の娘であったため、本来なら皇后にはなれない立場でした。ところが光明子が皇后となり、その娘の阿倍内親王(のちの孝謙・称徳天皇)を皇女立太子とするなど、「聖武天皇」の周辺には異例のものが多くみられます

「聖武天皇」の娘は天武系最後の天皇

「聖武天皇」の娘である阿部内親王は、譲位されて32歳で第46代孝謙天皇となります。752年には東大寺大仏開眼会を挙行し、翌年には唐の高僧・鑑真和上を迎えました。

その後第47代淳仁天皇に譲位しましたが、道鏡を寵愛したことで淳仁天皇と不和となったため、淳仁天皇を廃して重祚し第48代称徳天皇となります。770年、称徳天皇は崩御しますが、生涯独身で子供がなかったため天武系最後の天皇となりました。

まとめ

「聖武天皇」の人物像や系図、業績などを東大寺の大仏や平城京からの遷都もふくめて紹介しました。初めての出家や譲位のほか、皇族以外の母や妻を持つなど「聖武天皇」は異例ずくめの天皇といえます。

しかし、天災や疫病の蔓延などを自らの不徳と受け止める姿勢は、いつの世も為政者に求めたいものといえるでしょう。