「嵯峨天皇」は何をした人?源氏や空海との関係や時代背景も紹介

「嵯峨天皇」は平安時代初期の天皇で、貴族中心の華やかな時代の礎を築いた人です。空海らとともに三筆と呼ばれるほどの能筆であるとともに、律令制を強化して安定した政治を行いました。また武家の棟梁である源氏のを創設した人でもあります。それでは、「嵯峨天皇」が活躍した時代を詳しくみていきましょう。

「嵯峨天皇」は何をした人?

「嵯峨天皇」は第52代天皇

「嵯峨(さが)天皇」は、平安時代初期の天皇です。867年に第50代桓武天皇の第二皇子として生まれ、809年に兄の平城天皇からの攘夷を受けて即位しました。

唐文化を好み、神事以外での天皇の服装を唐風に改め、儀式や作法にも唐風を取り入れています。また、諸氏族の系譜書である『新撰姓氏録(しょうじろく)』や、年中行事の次第を定めた『内裏式』の編纂も行いました。

「嵯峨天皇」は『薬子の変』を平定した人

「嵯峨天皇」に譲位した平城太上天皇(上皇)でしたが、翌年に平城京遷都の命令を出しクーデターを起こしました。これが『薬子の変』または『平城太上天皇の変』と呼ばれているものです。

「嵯峨天皇」はすぐさま機内から東国へのルートを封鎖し、クーデターの共謀者である藤原仲成を監禁・射殺しました。これを受けて平成上皇は平城京に戻って出家、愛妾の藤原薬子は服毒自殺を遂げたのです。

「嵯峨天皇」は教養ある文化人

「嵯峨天皇」は政治家として優れていただけでなく、博学で教養ある文化人でもありました。治世時代の文化は「弘仁(こうにん)文化」と呼ばれ、貴族を中心に唐風の宮廷儀礼と詩文に彩られたものでした。

特に能筆として知られ、弘法大師(空海)や橘逸勢とならぶ三筆に数えられているほどです。詩文もよくし、勅撰漢詩集の『凌雲集』『文華秀麗集』に自らの漢詩を多く残しています。

またいけばなの嵯峨御流は、「嵯峨天皇」が菊を手折り殿上の花瓶に挿したことが始まりと伝えられるものです。

「嵯峨天皇」は律令制を強化した人

「嵯峨天皇」は、律令制を強化して国を安定させました。律令法典の『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』の編纂をはじめ、朝廷の機密保持機関としての『蔵人所(くろうどどころ)』や、京内外の治安維持のための『検非違使(けびいし)』を設けるなど、桓武天皇から引き継いだ律令制の再建を行っています。

「嵯峨天皇陵」は明治期に定められたもの

「嵯峨天皇」は842年に崩御しますが、亡骸は嵯峨院(現在の大覚寺)の裏山に埋めてから隠してしまうようにと遺言しました。

「嵯峨天皇」が埋葬されたと伝わる北西の山の頂上には、「御陵岩」と呼ばれる巨岩があり、明治期に天皇陵が定められた際、ここに盛土をして嵯峨天皇陵が造営されています。

「嵯峨天皇」と源氏との関係は?

源氏の祖は「嵯峨天皇」の皇子女8人

武家の棟梁・源氏は、平氏とともに皇族の末裔です。814年に、嵯峨天皇の子供たちのなかの8人が臣籍降下し、源姓を与えられました。これが最初の源氏となり、以降源氏は皇子が賜る姓の最も一般的な氏姓となっています。

源氏には嵯峨源氏のほか清和源氏や村上源氏、宇多源氏、花山源氏などがあり、特に清和源氏と村上源氏が栄えました。

源頼朝や足利尊氏のほか武田信玄、徳川家康は清和源氏の子孫です。ちなみに源氏の「源」は、「源(みなもと)を天皇と同じくする」ことからつけられました。

臣籍降下は経費節減のため

「嵯峨天皇」には子どもが50人もいましたが、皇位を継できる人数は限られています。そこで、朝廷歳費の節約と、皇室の藩塀(守護する者)とすることを目的に臣籍降下(臣下の籍に降りること)が行われました。最終的に「嵯峨天皇」の皇子女のうち32人が「源氏」の姓を与えられ、皇族を離れたのです。

なお、「平氏」は「嵯峨天皇」の父である第50代桓武天皇の孫が臣籍降下したもので、有名な「平家にあらずんば人にあらず」の「平家」は、平氏のなかの平清盛一門のことを指します。

「嵯峨天皇」と空海との関係は?

「嵯峨天皇」は空海の良き理解者

「嵯峨天皇」は、唐から最新の仏教である真言密教を持ち帰った空海に、高野山や東寺を下賜して支援しました。

「嵯峨天皇」の父である桓武天皇の平安遷都によって、強くなり過ぎた南都六宗の勢力を抑えたのですが、「嵯峨天皇」は空海の真言密教を支援することで、新風を吹き込もうとしたのです。

空海は祈祷によって「嵯峨天皇」を助けた

「嵯峨天皇」が即位して間もなく起きた「薬子の変」の際、空海は祈祷で「嵯峨天皇」を援助しました。また東寺を教王護国寺として鎮護国家の根本道場とし、乙訓寺の別当をとして早良親王の怨霊を鎮めるために尽力したのです。

「嵯峨天皇」と空海は同好の士

空海は唐から大量に持ち帰った美術品や詩書・書画のほか、新しい書体に応じた筆を造らせて「嵯峨天皇」に献上しています。

文芸の教養豊かであった「嵯峨天皇」はこれらを大変喜びました。国宝『狸毛筆奉献表』は、空海が筆を作って「嵯峨天皇」に献上したときの目録です。

まとめ

「嵯峨天皇」の業績をはじめ、源氏や空海との関係や時代背景も紹介しました。「嵯峨天皇」の時代は、「薬子の変」を平定して以降安定したもので、その後千年続く京の都の基礎となったのです。一方、自らの子供たちを臣籍降下した源氏によって、貴族から武家による時代が作られていきました。