「宇多天皇」即位のいきさつは?菅原道真や仁和寺との関係も紹介

「宇多天皇」は、臣籍降下を経て皇族に復帰して即位した異例の天皇です。藤原氏を遠ざけて親政政治を行ったことや、和歌の復興に尽力したことでも知られています。この記事は、「宇多天皇」即位のいきさつをはじめ、菅原道真や仁和寺との関係についても紹介しており、「宇多天皇」の業績がよく理解できるものです。

「宇多天皇」即位のいきさつとは?

臣籍降下の後に即位した「宇多天皇」

第59代「宇多(うだ)天皇」は平安時代前期の天皇で、臣籍降下して源定省(みなもとのさだみ)となって後に再び皇族に復帰して天皇となった人です。

867年に第58代光孝天皇の第七皇子として生まれ、884年に臣籍降下して源氏姓を賜りました。しかし光孝天皇の発病により887年、「宇多天皇」は定省親王として皇族に復帰して皇太子となり、光孝天皇の崩御により即位したのです。

「宇多天皇」は今上天皇の直系祖先

一度は皇室を離れた「宇多天皇」でしたが、第一皇子の第60代醍醐天皇から今上天皇まで直系の血統が続いています。

また、「宇多天皇」の醍醐天皇以外の4皇子は臣籍降下して宇多源氏となりましたが、その子孫のなかで近江に土着したのが佐々木氏です。佐々木氏は源頼朝の挙兵に馳せ参じて大活躍し、鎌倉幕府成立後には各地の守護職を任ぜられています。

「宇多天皇」は何をした人?

天皇親政を行った「宇多天皇」

大化の改新の功労者である中臣鎌足(なかとみのかまたり)を祖とする藤原氏は、天皇との姻戚関係を深めて強大な権力を握り続けていました。

ところが887年に、「宇多天皇」が藤原基経に関白就任を求める詔に反発したことに端を発した「阿衡(あこう)事件」が起こります。

これに懲りた「宇多天皇」は891年に基経が死去して以降、摂政・関白を置かずに自ら親政を行うようになりました。これが寛平の治(かんぴょうのち)で、門閥によらない善政をしき、醍醐・村上天皇まで続く天皇親政の時代を開いたのです。

文化事業にも熱心だった「宇多天皇」

「宇多天皇」は政治だけでなく、『日本三代実録』『類聚国史』など国史の編纂のほか、寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、和歌の再興にも力を入れました。

また、『宇多天皇御記』は現存する天皇の日記として最初のもので、阿衡事件の顛末など政治的なことだけでなく、天皇の日常や感情などが記されています。

愛猫家だった「宇多天皇」

「宇多天皇」は、愛猫家としても知られている天皇です。光孝天皇から賜わった黒猫を大変可愛がっていて、前出の『宇多天皇御記』には、貴重な牛乳を使った乳粥を毎日与えていたことや、猫の愛らしい様子などが細かく描写されています。

「宇多天皇」と菅原道真との関係

「阿衡事件」を収拾させた菅原道真

藤原基経が関白就任を求める詔に反発したことによる「阿衡事件」を収拾させたのが、菅原道真です。

「阿衡事件」で何の落ち度も無い橘広相(たちばなのひろみ)が処罰されようとしていることを知った道真は、藤原基経に意見書を送りました。これにより広相は許され、基経は関白に就任したのです。

この一件で「宇多天皇」の信任を得た道真は、891年に蔵人頭として抜擢されて以降、学者でありながら政治家として異例の出世をしていくことになります。

遣唐使廃止を建議した菅原道真

891年になると菅原道真は式部少輔、蔵人頭、左中弁などを兼任します。894年には遣唐大使に任命されますが、遣唐使の廃止を検討するよう「宇多天皇」に奏上したのです。

当時すでに唐が衰退しており、危険を冒してまで遣唐使を派遣する意味が薄れていました。その後907年に唐が滅亡したので、遣唐使廃止の建議は的確な判断だったといえるでしょう。

菅原道真は重用され過ぎて転落

道真はその後も宇多上皇の側近として出世を続け、901年1月には左大臣の藤原時平とともに従二位に叙せられました。しかしその後すぐ、道真は大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されます。

低い身分でありながら大臣に取り立てられたのに、分をわきまえず醍醐天皇の廃位を謀ったと時平が讒言したことによるものです。これが「昌泰(しょうたい)の変」で、道真だけでなく子供たちも左遷や流罪となりました。

「宇多天皇」と仁和寺との関係

仁和寺は「宇多天皇」が開山した寺院

1994年に世界文化遺産として登録された京都の仁和寺(にんなじ)は、「宇多天皇」が開山した寺院です。光孝天皇が886年に「西山御願寺」と称する寺院の建立を発願されましたが、翌年に光孝天皇が崩御したため、「宇多天皇」が遺志を引き継ぎました。

888年に完成した西山御願寺は、創建された当時の年号「仁和」にちなんで「仁和寺」と変更されたのです。

「宇多天皇」は初の法皇となった人物

「宇多天皇」は897年に上皇となり、899年に出家して初の法皇となりました。加持祈祷による鎮護国家や現世利益を求める真言宗は、多くの皇族たちの信仰を集めていましたが、阿闍梨となって修行したのは「宇多天皇」と第91代後宇多天皇だけです。

なお、仁和寺の別名「御室御所(おむろごしょ)」は、出家した「宇多法皇」が仁和寺に「御室(おむろ)」を造営して移住したことに由来します。

まとめ

「宇多天皇」即位のいきさつのほか、菅原道真や仁和寺との関係などを紹介しました。「宇多天皇」は一度皇籍を離れたにもかかわらず、その血脈は現在も続いています。加えて宇多源氏の祖でもあり、佐々木氏だけでなく六角氏や京極氏などが栄えました。

また、菅原道真を助けようと内裏宮門で座り込みの抗議をしたり、愛猫を猫可愛がりしたりしたことからは、人間味あふれる人物像がうかがえます。