「孝謙天皇」は何した人?藤原仲麻呂との関係や重祚のいきさつも

「孝謙天皇」は奈良の大仏開眼供養会を行ったり出家したまま重祚したりした、仏教とつながりが深い史上6人目の女性天皇です。また藤原仲麻呂の乱や道鏡事件などにもかかわるなど、波乱の人生でした。記事では、「孝謙天皇」がどんな人で何をしたかについて、藤原仲麻呂らとの関係や重祚のいきさつなどから紹介しています。

「孝謙天皇」は何をした人?

「孝謙天皇」は聖武天皇の娘

第46代天皇である「孝謙天皇(718年生・770年崩御)」は、奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像)建造を発願した第45代聖武天皇の娘です。母は史上初の人臣から皇后となった藤原光明子(光明皇后)です。

「孝謙天皇」は二人の間に生まれ、即位前の名前は阿倍内親王(あべのないしんのう)でした。752年4月9日には、東大寺大仏の開眼供養会を行っています。

「孝謙天皇」は史上唯一の女性皇太子

聖武天皇と光明皇后の間には、「孝謙天皇」の弟である第一皇子・基王(もといおう)がいました。しかし皇子が夭逝したため「孝謙天皇」が738年に立太子し、749年に聖武天皇の譲位によって即位することになります。

なお、女性皇太子は後にも先にも「孝謙天皇」の例が唯一です。これまで女性が天皇として即位した例は8名10代がありますが、いずれも未婚か未亡人であり、阿倍内親王も生涯未婚でした。

「孝徳天皇」と「称徳天皇」は同一人物

「孝徳天皇」は重祚して、第48代称徳天皇(しょうとくてんのう)となりました。つまり、「孝徳天皇」と「称徳天皇」は同一人物というわけです。

母である光明皇太后の看病のため、758年に「孝徳天皇」は第47代淳仁天皇(大炊王・おおいおう)に譲位し、太上天皇(だいじょうてんのう・上皇とも)となりました。

「孝徳天皇」は天武系最後の天皇

「孝徳天皇」は生涯未婚であったため、子供がいませんでした。そのため第40代天武天皇の玄孫にあたる「孝徳天皇」まで続いた天武系天皇は途切れ、天智天皇の孫である第49代光仁天皇が62歳という高齢で即位することになります。

「孝徳天皇」と藤原仲麻呂との関係

藤原仲麻呂は「孝徳天皇」の従弟

藤原仲麻呂は、「孝徳天皇」の従弟(いとこ)にあたる人物です。系図から「孝謙天皇」の母である光明皇后と、藤原仲麻呂の父である藤原武智麻呂(むちまろ)は、ともに藤原不比等の子であることがわかります。

聖武天皇の崩御後、藤原仲麻呂は光明皇太后からの厚い信頼を受け、「孝徳天皇」の補佐という重要な地位を得るのです。

仲麻呂は「孝徳天皇」のもとで大出世

光明皇太后と「孝徳天皇」の信任を背景に、藤原仲麻呂は権力を強めていきます。自分と関係の深い淳仁天皇(大炊王)を即位させることで大保(右大臣)となり、恵美押勝(えみのおしかつ)の姓名を与えられました。しかし光明皇太后の死去と、孝謙太上天皇が後述する道鏡を重用し始めたことで、権勢に陰りが見え始めたのです。

仲麻呂は「孝徳天皇」と対立し乱を企てる

藤原仲麻呂は淳仁天皇を通じて道鏡への寵愛をいさめますが、これに激怒した孝謙太上天皇は出家し、道鏡と結んで実権を奪い返しました。危機感を覚えた藤原仲麻呂は「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)」を企てましたが、未然に発覚します。

結果的に藤原仲麻呂は誅殺され、淳仁天皇は廃位され淡路国に流されてしまうのです。その後、孝謙太上天皇は重祚して称徳天皇となります。

「孝謙天皇」と道鏡との関係

関係のきっかけは病気治し

道鏡(どうきょう)は、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)出身の僧で、修行を重ねて修験道や呪術などを身に着けていました。

その加持祈祷を用いて孝謙太上天皇の病気を治したことをきっかけに、太上天皇の寵愛を受けるようになりました。

称徳天皇の庇護下で道鏡は大出世

藤原仲麻呂の乱を鎮めた孝謙太上天皇は重祚して称徳天皇となり、765年に道鏡を朝廷の最高位である太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)に任命しました。加えて766年には、道鏡を宗教界最高の位である「法王」に任じます。

道鏡は皇位を狙って失脚

「法王」は宗教上、天皇よりも高位にあるものです。異例の出世を遂げた道鏡が皇位の簒奪を狙って起こしたのが、道鏡事件ともいわれている「宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)」でした。

道鏡を皇位に就けることで世は太平となるという宇佐八幡宮の神託があったというものですが、和気清麻呂(わけのきよまろ)が真偽を確かめたところ、これが嘘であったことが発覚します。

この事件の翌年(770年)、称徳天皇の崩御のより道鏡は失脚しましたが処刑は免れ、下野国(現在の栃木県下野市)の下野薬師寺別当となりこの地で死去しました。

まとめ

「孝謙天皇」について、藤原仲麻呂や道鏡らとの関係や重祚のいきさつなどからみていきました。藤原仲麻呂の乱や道鏡事件などからもわかるように、権力闘争に翻弄された人生だったようです。天武系最後の天皇となったことも、皇位をめぐる争いによるものでした。