「清和天皇」は、源頼朝や足利尊氏などを輩出した「清和源氏」の名で知られている天皇です。しかし武闘派ではなく学究肌だった「清和天皇」の子孫が、どのようにして「清和源氏」となったのでしょうか。この記事は、「清和天皇」と源氏とのつながりのほか、「桓武平氏」で知られる桓武天皇との関係も紹介しているものです。
「清和天皇」は何した人?
「清和天皇」は9歳で即位した天皇
第56代「清和天皇(せいわてんのう)・諱は惟仁(これひと)」は、第55代文徳天皇(もんとくてんのう)と太政大臣・藤原良房(よしふさ)の娘明子との間に第4皇子として生まれました。
文徳天皇は第1皇子であった惟喬親王(これたかしんのう)を皇太子にと希望していました。しかし、実権を握っていた藤原氏の意向により、850年に惟仁親王が生後8カ月で皇太子に立てられ、858年の文徳天皇崩御にともない、9歳で即位しました。
外祖父・藤原良房は初の人臣摂政
9歳で即位した「清和天皇」でしたが、幼少のため実際の政治は外祖父である藤原良房が行うことになりました。さらに866年に起きた大内裏の正殿正門炎上に絡む疑獄(応天門の変)を契機に、藤原良房は摂政となりました。
従来、天皇を代理する重要な役職である摂政に就くことができたのは皇族のみでしたが、「清和天皇」の外祖父であった藤原良房は初の人臣摂政となったのです。
文化・学芸面での功績が大きい「清和天皇」
政治の実権は藤原良房が握っていましたが、「清和天皇」は学問を好み文化・学芸方面に力を発揮しました。実績は勅撰の歴史書である『続日本後紀』や、法令集『貞観交替式』『貞観格』『貞観式』の編纂などです。
また、869年に東北地方で発生した貞観地震(じょうがんじしん)では、甚大な被害がありましたが、このとき「清和天皇」は東北地方に減税を行って復興を支援しました。
「清和天皇」は9歳の皇子に譲位
「清和天皇」は27歳のときに、まだ9歳だった貞明親王(のちの陽成天皇・ようぜいてんのう)に譲位します。その後、仏門に入って畿内の寺院で厳しい修行に励みました。
2年後31歳の若さで薨去しましたが、激しい修行が死因ではないかといわれています。亡骸は水尾山寺近く(現在の清和天皇陵)に葬られ、これが由来となって「清和天皇」は別名「水尾帝」と呼ばれているのです。
「清和天皇」と源氏との関係
「清和天皇」の子供は19人
「清和天皇」には、以下のように19人の子供がおられました。
先に紹介したように「清和天皇」は学究肌タイプの天皇でしたが、子孫からは多くの有力武士が生まれました。
源頼朝を生んだ清和源氏の系統
清和源氏は、源頼朝や足利尊氏など有力武家を多数輩出しました。源経基の孫で清和源氏の三代目・源頼信(みなもとのよりのぶ)は河内(現在の大阪府南部)を本拠としたため、河内源氏と呼ばれるようになります。
この頼信の孫が八幡太郎の異名で知られる源義家(みなもとのよしいえ)で、源頼朝や足利尊氏の祖先にあたる人物です。
清和源氏の三代目には、大江山の酒呑童子退治で知られる源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)がおり、その子孫は摂津源氏(多田源氏)と呼ばれるようになります。他には、新田義貞や武田信玄らも河内源氏の系統でした。
「征夷大将軍は清和源氏」が不文律に
日本初の武家政権として鎌倉幕府を開いた源頼朝、続く室町幕府を開いた足利尊氏はともに清和源氏の系統でした。そのため征夷大将軍は清和源氏の系統でなければならないという不文律が生まれたのです。
清和源氏ではなかった徳川家康は、足利氏の系図を吉良家から手に入れて河内源氏の新田氏の末裔を名乗り、無事征夷大将軍となりました。
清和天皇と桓武天皇との関係
清和天皇は桓武天皇の玄孫
清和天皇の家系図を見ると、以下のようになっています。
平氏の祖は桓武天皇の孫
桓武天皇には帝位を継いだ平城天皇(へいぜいてんのう・第51代)以外にも多くの皇子がいました。
そのなかの一人、葛原親王(かずらわらしんのう)が長男の高棟王(たかむねおう)を臣籍降下して「平高棟(たいらのたかむね)」となったのです。この「平高棟」が平氏の始まりです
源氏も平氏も桓武天皇の子孫
源氏も平氏も、桓武天皇の子孫です。平氏と源氏との違いは「姓(かばね)」にあります。臣籍降下した後に賜った姓が「源朝臣(みなもとのあそん)」だと源氏、「平朝臣(たいらのあそん)」だと平氏となりました。源氏は天皇の子供、平氏は天皇の孫に与えられたという点にも違いがあります。
なお、「姓」は天皇から与えられた世襲官職の名称で、 「苗字」は血統に由来する家の名前、「名字」は地域に由来する家の名前という違いがありますが、現在これらは使い分けられていません。
まとめ
「清和天皇」の人となりのほか、源氏や桓武天皇との関係も紹介しました。清和天皇の流れをくむ清和源氏は後に征夷大将軍として、日本の最高権力者となっていきます。
つまり「清和天皇」は、長い時を経て藤原氏から政治の実権を取り戻した功労者といえる人物なのです。