「後水尾天皇」は、二代将軍の娘・和子の入台や、紫衣事件など徳川幕府の朝廷への締め付けに抵抗を試みた天皇です。また文化や芸術に造詣が深く、名園として名高い修学院離宮の造営も行いました。この記事では、「後水尾天皇」の業績をはじめ、譲位の理由や和子入台のいきさつ、名前の由来なども紹介しています。
「後水尾天皇」はどんな天皇?
「後水尾天皇」は徳川幕府に逆らった天皇
第108代「後水尾天皇(ごみずのおてんのう)」は、父である第107代後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の崩御を受けて1611年に即位します。
1615年に徳川家康が制定した「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」は、江戸幕府が天皇や公家の行動を規制するためのものでした。このような幕府の姿勢に強く反発したのが「後水尾天皇」だったのです。
「後水尾天皇」に入台した和子は秀忠の娘
家康に反発した「後水尾天皇」でしたが、天皇の外戚となることを望んだ家康により、二代将軍・秀忠の八女、和子(まさこ)が入台しました。
その後和子は2皇子5皇女を生みましたが、皇子は2人とも夭折したため、徳川の血を引く男性天皇の即位は実現しませんでした。
「紫衣事件」での幕府専横に怒り心頭
禁中並公家諸法度を不服とした「後水尾天皇」は、幕府の了解を得ず僧侶に紫衣の着用を許しました。1627年にこれを違法とした幕府が紫衣を取り上げ、抗議した僧侶を流罪にしたのが「紫衣事件(しえじけん)」です。
「紫衣事件」により、幕府の定めた法度が勅許に優先することが示され、「後水尾天皇」は幕府の専横に憤懣やるかたない思いを募らせていきました。
「春日局」の拝謁で譲位を決行
さらに三代将軍家光の乳母である斎藤福(のちの春日局)が、将軍の名代として御所へ参内しました。徳川家では絶大な権力を持っていたとはいえ、天皇に拝謁できる身分ではなかったため、福は遠縁の三条家と縁組をするという場当たり的な手段で拝謁を強行したのです。
激怒した「後水尾天皇」は1629年、幕府に無断で退位、7歳の興子内親王(おきこないしんのう)に譲位しました。これにより859年ぶりの女性天皇となった第109代明正天皇(めいしょうてんのう)は未婚のまま退位、徳川の血を引く天皇は一代限りで途絶えることとなります。
「後水尾天皇」は何した人?
「後水尾天皇」は4代にわたり院政を敷いた天皇
明正天皇に譲位した「後水尾天皇」は、続く第110代後光明天皇(ごこうみょうてんのう)から第112代霊元天皇(れいげんてんのう)までの4代・51年にわたり上皇として院政を敷きました。なお、4代の天皇はすべて「後水尾天皇」の子供で、霊元天皇は第19皇子です。
「後水尾天皇」は寛永文化の礎を築いた天皇
「後水尾天皇」は和歌を重んじ、『後水尾院御集(鴎巣集)』や『類題和歌集』などを編纂します。茶の湯や書道など学問・諸芸にも秀で本阿弥光悦らを庇護するほか、廃れていた宮中行事を復活させるなど、瀟洒で雅やかな寛永文化の礎を築きました。
別邸として造営された修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)は、日本屈指の名園とされています。また「後水尾天皇」は仏道にもはげみ、1651年には落飾し法皇となります。
「後水尾天皇」は歴代2位の長寿を全う
後水尾天皇は1680年、老衰のため85歳で崩御されました。これは87歳で崩御された昭和天皇に次ぐもので、神代をのぞく歴代天皇中2位の長寿です。葬礼は泉涌寺で行われ、寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られました。
なお、相国寺境内には墓とは別に、出家落髪の際に髪と歯を納めた三層宝塔の跡地に作られた「後水尾天皇髪歯塚(はつしづか)」があります。
「後水尾天皇」の名前の由来
「後水尾天皇」は死後の呼び名
「後水尾天皇」に限らず、「〇〇天皇」の〇〇は死後に送られた『諡号(しごう)』もしくは『追号(ついごう)』で、生前に呼ばれたものではありません。「後水尾天皇」の実名は「政仁(ことひと)」でしたが、これは通常口にすることはない名前(諱・いみな)です。
「後水尾天皇」の名前の由来は「清和天皇」
「後水尾天皇」の名前の由来は、「水尾の帝」とも呼ばれた第54代清和天皇(せわてんのう)です。譲位後の清和天皇が水尾の里で仏道に励み、崩御後に陵がつくられたことによります。
「後」は「加後号(かごごう)」といい、ゆかりのある地が以前の天皇と同じであるときや、その天皇への憧憬などから名前の前に付けたものです。
「後水尾天皇」が清和天皇の別名だった「水尾」を用いた理由のひとつは、徳川家が清和源氏の末裔と称したことへのあてつけがあったようです。
まとめ
「後水尾天皇」の業績をはじめ、譲位の理由や和子入内のいきさつなどを紹介しました。禁中並公家諸法度をはじめとする幕府の規制に抵抗し、最終的には無断で内親王に譲位することで徳川の血統を断ち切ることに成功します。また、追号でも清和源氏を称する徳川家に一矢報いました。