「性悪説」とは?唱えた人は誰?正しい意味と「性善説」との違い

「性悪説」と「性善説」どっちが正しい?というような議論がよく聞かれます。また性悪説を唱えた人は誰なのかという議論も多いようです。

そもそも「性悪説」とはどのような説なのでしょうか?その意味を取り違えたまま議論することがないよう、正しい意味とその教えを解説します。

「性悪説」とは?

「性悪説」とは「努力の結果、立派な人間になれる」という論

「性悪説」とは、「人は本来、弱い存在である」ということです。「環境によってどのようにも変化するので礼儀作法や社会規範を学ぶことが大切だ」そしてその結果「立派な人間になれる」という論になります。

「性悪説」を唱えた人は「荀子」

「性悪説」を唱えたのは古代中国の哲学者で思想家である「荀子」という人です。荀子の著作を整理してまとめられたものが『荀子』という書物で、人間は主体的に努力することが大切だということが、この中で全体として説かれています。

『荀子』32篇のうちの性悪篇で、後天的な学習の大切さを説明する「性悪説」が明らかにされています。

■参考記事
「荀子」の思想とは?性悪説や勧学の名言も紹介!孟子との比較も

「性悪説」の正しい意味(訳)は「努力することによって善を獲得できる」

「性悪説」について語られている文の、原文、書き下し文、そして訳文とその意味とを順番に記します。

原文:人之性悪、其善者偽也。

書き下し文:人の性は悪なり、その善なるは偽なり

訳文:本来の人間の性質は悪である。それが善になるのは人間の意思で努力することの結果である。

原文の「悪」の意味は、「悪い」という意味ではなく、「弱い存在である」という意味です。また、「偽」という字の意味は「偽り」ではなく、「人の為す」結果、という意味です。

つまり、弱い存在で生まれつく人間は、自分の意思で学問を修め、努力することによって後天的に善を獲得できるということを説いています。

「性悪説」と「性善説」との違い

違いは「唱えた人物」と「人間の本性の捉え方」にある

「性善説」とは、孟子(もうし)が提唱したものです。これに対する言葉として、荀子が唱えた言葉が「性悪説」となります。

内容の違いに関しては、「性悪説」と「性善説」は相対するものではありません。人間の本性とはどのようなものか、という捉え方に違いがあります。両者とも、目指すゴールは「立派な人間になる」ということがポイントです。

孟子の「性善説」については、別の記事でも解説していますので参考にしてみてください。

■参考記事
「性善説」の正しい意味とは?「孟子」と例文から使い方を解説

荀子が示した「性悪説」の例

荀子の言葉と現代語訳3つを紹介

『荀子』の中から、「性悪説」に立った荀子の言葉と現代語訳を紹介します。

蓬も麻中に生ずれば、たすけざるも直し
訳文:よもぎは曲がりくねって生育するが、まっすぐの麻の中で育つと自然にまっすぐになる。人の育ちもそれと同様に環境次第である。

つまだちて望むは、高きに登るのひろく見るにしかざるなり
訳文:遠くを見ようとつま先立ちをするが、高いところに立つほうが眺望がよい。学びが高まったとき、はじめてその視野が開けるのである。

居るには必ず郷をえらび、遊ぶには必ず士に就く
訳文:すぐれた人はその居る場所には必ずよい環境を選び、交遊の相手は学徳のある人を選ぶ。人は環境と交友関係に影響される。

その他の「性悪説」の考え方

「性善説」の考え方については、他にもさまざまな解釈がされています。荀子の唱えた性善説とは違う意味での性善説について紹介します。

ビジネスにおける「性悪説」

ビジネスシーンで「性悪説に立って考える」などということがあります。そのとき、特にその意味を明らかにしないまま使われることが多いですが、一般的には「相手を悪人だとして疑って接する態度」を意味します。

そのとき同時に「性善説」が持ち出されて対比されることもあります。そのときの「性善説」の意味は、「相手を善人だとして信用して接する態度」を一般的に意味します。

例えば、日本国内で事業をするときは「性善説」でも大丈夫だが、海外と取引をするときには「性悪説」に立ってとりくまないと失敗する、などの意見です。この考えの背景には、欧米が徹底した契約社会であることや、考え方の根底に個人主義(騙されるのは騙される側の責任であるなど)があることなど、文化的な違いによる摩擦が潜んでいるといえるでしょう。

以上のような、ビジネスシーンなどで使われる「性悪説」という言葉は、荀子の唱えた「性悪説」とは異なるものです。

キリスト教における「性悪説」

キリスト教の教義が「原罪」に基づいているため、キリスト教は性悪説の立場に立っている、との論があります。キリスト教の 「原罪」とは、「人は生まれながらに罪を背負っており、その罪からの解放は神の恩恵のみである」とする考え方です。

またこのときにいう「性悪説」とは、「人は生まれながらに悪人である」という考えです。しかし罪を背負った人間を悪人としているわけではないため、解釈の仕方によると考えられます。

フロイトにおける「性悪説」

精神分析学の創始者であるオーストリアのフロイトは、人はもともと悪いものとして生まれており、そのため人と争ったり、戦争をしたりすると考えていました。その根拠として、人間には破壊的衝動力が生まれながらに備わっていると主張しています。

このような思想から、フロイトは「性悪説」である、との論があります。しかしフロイトが直接的に「人間は悪である」と主張したわけではないため、解釈の仕方によると考えられます。

まとめ

「性悪説」とは、「人は努力することによって善を獲得できる」とする荀子の唱えた説で、孟子の「性善説」に反して提唱されました。孟子の「性善説」とは、「人は本来、善である」とするものです。

荀子の「性悪説」と孟子の「性善説」は、相反するものではなく、どちらも努力の積み重ねによって「善」を獲得、あるいは開花させ、立派な人間となることができる、というものです。

いずれにせよ、人は自ら努力しなければ悪に染まる、あるいは低い方に流れていってろくなことになならない!と述べられています。性悪説と性善説、どっちが正しい?と言っている場合ではないかもしれません。