「ボッティチェリ」とは?『プリマヴェーラ』など代表作品も解説

サンドロ・ボッティチェリによるルネサンスの傑作『プリマヴェーラ(春)』や『ヴィーナスの誕生』は、日本でもたいへん人気があります。これらの傑作は、どのような背景から生まれたのでしょうか?

この記事では、ボッティチェリの生涯や、同じ時期に活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチとの関係、作品の技法などを紹介します。あわせて代表作品についても解説します。



「サンドロ・ボッティチェリ」とは?

『ラーマ家の東方三博士の礼拝』に書き込まれたボッティチェッリ自画像
(出典:Wikimedia Commons)

ボッティチェリは「ルネサンス」を代表するフィレンツェの画家

サンドロ・ボッティチェリ(Sandro Botticelli、1445年~1510年)は、初期ルネサンスを代表する画家で、フィレンツェに多くの業績を残しました。『プリマヴェーラ(春)』や『ヴィーナスの誕生』などの傑作は、古代ギリシャをテーマに自由な精神で描いた華やかな作品で、世界的に人気があります。

ボッティチェリはフィレンツェに生まれ、フィリッポ・リッピ(1406年~1469年)の工房で修行し、のちにヴェロッキオ(1453年~1488年)の工房に移ります。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)ものちにヴェロッキオに弟子入りし、そこで二人は出会いました。

1481年からシスティーナ礼拝堂の壁画を手掛けるためにローマに滞在した時期を除いて、ボッティチェリは生涯をフィレンツェで過ごしました。レオナルドは20代の後半にはフィレンツェを離れました。

なお、ルネサンスとは、14世紀のイタリア・フィレンツェに興った美術運動です。神を中心とする世界観を脱し、古代ギリシャ・ローマの人間至上主義への回帰を目指しました。

ボッティチェリの最大のパトロンは「ロレンツォ・デ・メディチ」

ボッティチェリの最大のパトロンは、当時のメディチ家の当主だったロレンツォ・デ・メディチ(別名ロレンツォ・イル・マニフィコ=偉大なるロレンツォ)(1449年~1492年)でした。ボッティチェリはロレンツォにことのほか気に入られ、二人は友人でもありました。ロレンツォは豪華王とも呼ばれ、ボッティチェリはロレンツォの惜しみない保護のもと、ルネサンスを謳歌しました。

ボッティチェリとメディチ家との関係は深く、『ラーマ家の東方三博士の礼拝』(1445年頃)には、ロレンツォはじめメディチ家の四人の一族と、自身の肖像を描き入れています。

ロレンツォの死後は「修道士サヴォナローラ」に心酔し画風が変わる

1492年にロレンツォが死亡する数年前から、修道士サヴォナローラがフレンツェの腐敗やメディチ家による独裁体制を批判し、支持を得るようになります。ロレンツォの死後は、フィレンツェ共和国の政治顧問となり、権力を得て神権政治を行うようになりました。

サヴォナローラは、シニョリーア広場に美術品を集めて焼き払うという「虚栄の焼却」を行い、このときボッティチェリ作品の多くも灰となりました。

ボッティチェリもサヴォナローラの説教に影響を受け、ギリシャ神話をテーマにした自由で華やかな作風を捨て、厳格な宗教絵画を描くようになります。次第に絵を描くこともなくなり、晩年は困窮の中、78歳で生涯を閉じました。

ボッティチェリは「レオナルド・ダ・ヴィンチ」のライバルだった

レオナルド・ダ・ヴィンチもボッティチェリと同時代に活躍しました。しかしレオナルドがメディチ家に近づいても、選ばれるのはいつもボッティチェリでした。ロレンツォ・デ・メディチは、教養がないなどとして、レオナルドを評価していなかったとも言われています。

また、レオナルドは気難しく、依頼主に気に入られるような絵を描こうとはしませんでした。あとで説明しますが、ボッティチェリが得意とした、メディチ家が心酔していた新プラトン主義の解釈を絵画に置き換えることに、レオナルドは興味がなかったとも思われます。メディチ家とレオナルドは、相性が悪かったのかもしれません。

「ボッティチェリ」の技法とは?

絵画には「テンペラ」、壁画には「フレスコ」技法を用いた

中世ヨーロッパのボッティチェリの時代は、絵画ではテンペラが主な技法として用いられました。テンペラとは顔料を卵や膠(にかわ)などで混ぜ合わせた絵の具を用いる絵画技法のことです。支持体はカンヴァスが発明されるまでは、主に木の板が用いられました。

1482年頃に制作された『プリマヴェーラ(春)』は木板にテンペラで、1485年頃に制作された『ヴィーナスの誕生』は、カンヴァスにテンペラで描かれています。

またこの時代は、建物の壁に直接描く壁画では「フレスコ」技法が用いられました。ボッティチェリのシスティーナ礼拝堂の壁画も、フレスコ画です。フレスコとは、漆喰(しっくい)を壁などの下地に塗り、それが乾かないうちに、水に溶かした水性絵の具で絵を描いて染み込ませる技法です。

■参考記事
「テンペラ」とは何か?ムンクの『叫び』などのテンペラ画も紹介
「フレスコ画」とは何か?描き方や『最後の審判』など有名壁画も

「ボッティチェリ」の代表作品とは?

『マニフィカトの聖母』1481年頃

『聖母』ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
(出典:Wikimedia Commons)

『マニフィカトの聖母』は、マリアが書き物をする姿で描かれ、開かれた「マリアの時祷書」には、「マニフィカト」すなわちマリア賛歌の文字が細密に書かれています。聖母はボッティチェリ特有の憂いを含んだ表情です。

15世紀には円形図が流行しました。ボッティチェリはさまざまなポーズを工夫して円形に収めています。またこの作品は金が贅沢に用いられています。天上の光やマリアの王冠、人物や天使の髪のハイライトまで金の絵の具が使われました。

『プリマヴェーラ(春)』1482年頃

『プリマヴェーラ』ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
(出典:Wikimedia Commons User:Aavindraa)

『プリマヴェーラ』は「春」という意味の、横幅が3メートル余りの大きな板のテンペラ画です。来歴にはいくつかの説がありますが、ボッティチェリの最大のパトロンであったロレンツォ・イル・マニフィコの又従兄弟にあたるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの結婚または婚約を記念して注文されたものだとの説が有力です。

中央の女性は愛と美の女神ヴィーナスで、ヴィーナスの向かって右手に花を全身にまとっているのが春の女神プリマヴェーラです。その横で口から花がこぼれているのは大地の女神クロリス、ヴィーナスの左の3人の女性はヴィーナスの侍女である三美神です。そして右端にいるのが西風の神ゼフュロス、左端が伝令神メルクリスです。

この場面は、古代ローマの詩人による春の到来の詩の一節をモチーフにしているとされます。ルネサンスの華やかさを伝える絵画です。

『パラスとケンタウルス』1482年頃

『パラスとケンタウロス』ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
(出典:Wikimedia Commons User:~riley)

『パラスとケンタウルス』は、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチのために描かれたとされています。女神パラスの衣装には、ロレンツォの個人的な紋章の意匠である、ダイヤの指輪を組み合わせた図柄がちりばめられています。

知恵の女神パラスは、平和の象徴であるオリーブの冠をかむり、人間の獣性の象徴であるケンタウロスの髪をつかんでいます。この絵は野蛮な獣性に対する理性の勝利を表しており、新プラトン主義の世界観を示しています。

15世紀のフレンツェでは、コジモ・デ・メディチ(コジモ・イル・ヴェッキオ)が、キリスト教文化と古代ギリシャ・ローマの宗教文化との融合を試みる新プラトン主義を学ぶ学問サークルを立ち上げ、ボッティチェリも影響を受けていました。新プラトン主義では、人間のあるべき姿を、肉欲から脱した神の領域の美に求めました。

『パラスとケンタウロス』は『プリマヴェーラ』とともにロレンツォの邸宅にかけられていました。この2作品は、愛をテーマにして対で描かれたものだと考えられています。

『ヴィーナスの誕生』1485年頃

『ヴィーナスの誕生』ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
(出典:Wikimedia Commons User:Dcoetzee)

海の泡から生まれたヴィーナスが、西風の神ゼフュロスと、大地の女神クロリスの吹き出す風にのって、浜辺に上陸しようとしています。ヴィーナスを迎えるのは季節の女神ホーラですが、ドレスの花模様から春の女神であることが示されています。

『ヴィーナスの誕生』は、メディチ家の誰かからの注文によって描かれ、もともとはメディチ家のどこかの別荘にかけられていたとされます。のちにフィレンツェの邸宅に移され、『プリマヴェーラ』とともに飾られていました。

裸体である『ヴィーナスの誕生』のヴィーナスは、天上のヴィーナスを、衣服をまとった『プリマヴェーラ』のヴィーナスは、地上のヴィーナスを表しています。このように天上と地上を対比させる考え方は、新プラトン主義に特徴的な発想でした。

『受胎告知』1489年~1490年頃

『受胎告知』ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
(出典:Wikimedia Commons)

この『受胎告知』は、チェステッロ聖堂のために描かれました。『新約聖書』「ルカ福音書」に記された、大天使ガブリエルがマリアにイエスの懐胎を告げる「受胎告知」の場面は、さまざまな画家によって描かれましたが、本作品はドラマティックな人物表現が特徴です。

通常マリアは敬虔に告知を受け入れる静かな姿で描かれますが、ここでのマリアは身をよじり、右手をガブリエルに差し出しています。当惑しながらも知らせを受容する複雑な感情が表現されています。

ダンテ『神曲』の挿絵『地獄全図 』1480年~1500年

『地獄全図 』1490年 ヴァチカン図書館(ヴァチカン市国)
(出典:Wikimedia Commons User:Maksim)

ボッティチェリは、長い期間をかけてダンテの『神曲』の挿絵に取り組みました。「地獄篇」「天国篇」などから93枚のスケッチが現存しており、ヴァチカン図書館とベルリン国立絵画館に分蔵されています。

メディチ家の依頼でシリーズが作成され、理由はわかっていませんが未完に終わっています。『地獄全図 』はダンテの語る地獄の空間が忠実に表現されています。本作品は着彩された数少ないスケッチで、羊皮紙に描かれています。

まとめ

ボッティチェリは、メディチ家をパトロンとして初期ルネサンスを謳歌し、フィレンツェに多くの傑作を残しました。しかし、友人でもあったロレンツォ・デ・メディチが亡くなったあとは、過ちによる贅沢品だとして芸術品を焼くなどしたサヴォナローラに心酔し、優雅な画風を捨て、自らの作品も燃やしてしまうなど残念な晩年を迎えました。

運よく難を逃れたボッティチェリの作品は、メディチ家ゆかりの美術品を集めたフィレンツェのウフィツィ美術館に収蔵されています。

初期ルネサンスがボッティチェリとともに終わると、盛期ルネサンスの時代がローマやヴェネツィアで始まります。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの三大巨匠が活躍しました。

■参考記事
「メディチ家」とその歴史とは?紋章やミケランジェロ作品も解説
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」とは?その天才性と作品の謎も解説
「ミケランジェロ」とは?『ダビデ』や天井画など代表作品を紹介