現在の天皇陛下は第125代天皇。日本では初代・神武天皇から現代までに124名が天皇の位に就いて、その時代ごとに様々な功績を残されました。
この記事では、日本の歴代天皇35名を抜粋してご紹介。どのような天皇だったのか、当時の活躍やエピソード、関係の深い人物との出来事をまとめた記事をお届けします。
古墳時代の天皇とは?
第10代:崇神天皇(在位:崇神天皇元年1月13日~同68年12月5日)
「崇神天皇(すじんてんのう)」は第10代天皇です。ヤマト王権の基礎を築いた人物で、奈良県を拠点に領地を広げていきました。当時に大流行した疫病を鎮めたエピソードや、卑弥呼の関係者である説なども有名です。
「崇神天皇」はどんな人?疫病を鎮めたエピソードや卑弥呼との関係
第12代:景行天皇(在位:景行天皇元年7月11日~同60年11月7日)
「景行天皇(けいこうてんのう)」は第12代天皇です。景行天皇の子の一人に、英雄として伝説が残る「ヤマトタケルノミコト(日本武尊)」がいます。
景行天皇自身も、熊襲(くまそ)平定のために九州に赴きました。熊襲が再び反抗した際に、息子のヤマトタケルノミコトを遣わします。
第15代:応神天皇(在位:応神天皇元年1月1日~同41年2月15日)
「応神天皇(おうじんてんのう)」は第15代天皇で、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)の孫にあたります。百済との国交に積極的だった応神天皇は、国外からの文化・技術の輸入に力を入れました。
「応神天皇」は実在した?八幡宮や武家との関係と時代背景も紹介
第21代:雄略天皇(在位:安康天皇3年11月13日~雄略天皇23年8月7日)
「雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)」は第21代天皇です。別名で「ワカタケル大王」とも呼ばれます。大王による支配体制を確立したと見られる存在で、雄略天皇の時代から中央集権体制が始まったと考えられています。
第25代:武烈天皇(在位:仁賢天皇11年12月~武烈天皇8年12月8日)
「武烈天皇(ぶれつてんのう)」は第25代天皇です。10歳という若さで即位し、18歳で亡くなった天皇でした。民が恐れるほどの暴君であったことが『日本書紀』に記されています。
第26代:継体天皇(在位:継体天皇元年2月4日~継体天皇25年2月7日)
「継体天皇(けいたいてんのう)」は第26代天皇です。武烈天皇には子がおらず、皇位継承者がいなかったために応神天皇の5世孫である継体天皇が即位しました。文献の少なさや没年の曖昧さから、謎の多い天皇であるとも言われています。
「継体天皇」は何をした人?謎多き即位の経緯と聖徳太子との関係
第32代:崇峻天皇(在位:用明天皇2年8月2日~崇峻天皇5年11月3日)
「崇峻天皇(すしゅんてんのう)」とは第32代天皇です。崇峻天皇は、正史の中で暗殺されたことが記録されている唯一の天皇。蘇我馬子を排斥しようと企てたことがきっかけで、蘇我馬子が暗殺を命じた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)の手により殺害されました。
飛鳥時代の天皇とは?
第33代:推古天皇(在位:593年1月15日~628年4月15日)
「推古天皇(すいこてんのう)」は第33代天皇で、日本で初めての女性天皇です。推古天皇の甥にあたるのが「聖徳太子」です。推古天皇は聖徳太子とともに、憲法十七条の制定のほか、冠位十二階や国史の編纂、遣隋使の派遣などを行い、飛鳥時代での功績を数多く残しました。
第34代:舒明天皇(在位:629年2月2日~641年11月17日)
「舒明天皇(じょめいてんのう)」は第34代天皇です。推古天皇が後継者を指名しなかったため、後継者争いが起きたのちに即位しました。第一回遣唐使の派遣、東北地方の「蝦夷征伐」を行った天皇です。
「舒明天皇」は何した?推古天皇との関係や子供・次の天皇も解説
第35代:皇極天皇(在位:642年2月19日~645年7月12日)
「皇極天皇(こうぎょくてんのう)」は第35代天皇で、推古天皇に続いて2人目の女性天皇です。先代の舒明天皇死後、妻の宝皇女(たからのおうじょ)が天皇として即位しました。
一度は天皇の位を退きますが、のちに第37代「斉明天皇」として再び天皇になります。
「皇極天皇」は何した人?譲位・重祚の流れや蘇我入鹿との関係も
第36代:孝徳天皇(在位:645年7月12日~654年11月24日)
「孝徳天皇(こうとくてんのう)」は第36代天皇で、皇極天皇の弟です。先代の皇極天皇より譲位を受けて即位しました。皇太子の中大兄皇子と「大化の改新」を進め、様々な政策・事業に取り組みましたが、晩年には中大兄皇子との関係は悪化していたと考えられています。
「孝徳天皇」とは?中大兄皇子と大化の改新後の政治・税制を解説
第37代:斉明天皇(在位:655年2月14日~661年8月24日)
「斉明天皇(さいめいてんのう)」は第37代天皇で、「皇極天皇」と同一人物です。孝徳天皇が亡くなったのちに、もう一度天皇に即位しました。これを「重祚(ちょうそ・じゅうそ)」と呼びます。大規模な土木工事を好み、蝦夷征討軍の派遣も行いました。
「斉明天皇」は何した人?皇極天皇の重祚・中大兄皇子との関係も
第38代:天智天皇(在位:668年2月20日~672年1月7日)
「天智天皇(てんじてんのう)」は第38代天皇です。一般的には中大兄皇子として知られていますが、天皇に即位して天智天皇になりました。
父は第34代舒明天皇、母は第35代皇極天皇(重祚して第37代斉明天皇)の第二皇子です。
第40代:天武天皇(在位:673年3月20日~686年10月1日)
「天武天皇(てんむてんのう)」は第40代天皇です。672年に起きた大規模な内乱「壬申の乱」に勝利して即位しました。第38代天智天皇とは同じ父母を持ち、天智天皇が兄、天武天皇が弟にあたります。
「天武天皇」は何をした人?壬申の乱と即位・天智天皇との関係も
第41代:持統天皇(在位:690年2月14日~697年8月22日)
「持統天皇(じとうてんのう)」は第41代天皇、3人目の女性天皇です。天智天皇の娘であり、天武天皇の妻で皇后でした。天武天皇の崩御後、子の草壁皇子が継ぐはずでしたが病死してしまったため、自身が天皇として即位します。先代の夫から引き継いだ事業で功績を残した天皇です。
「持統天皇」は何した人?遷都と律令や万葉集・和歌のエピソード
第42代:文武天皇(在位:697年8月22日~707年7月18日)
「文武天皇(もんむてんのう)」は第42代天皇です。第40代天武天皇と第41代持統天皇の孫にあたります。先代の持統天皇からの譲位で、14歳のときに即位しました。持統天皇は「太上天皇」として後見役を務めます。これがのちの院政の始まりです。
「文武天皇」は何をした人?系図・出来事と大宝律令制定の裏側も
奈良時代の天皇とは?
第44代:元正天皇(在位:707年8月18日~715年10月3日)
「元正天皇」は第44代天皇、奈良時代に入って2人目の天皇です。第42代文武天皇の姉であり、母の第43代元明天皇からの譲位で即位しました。この経緯には、文武天皇の子がまだ幼かったことが理由としてあります。元正天皇はこれまでの女性天皇の中で、はじめて結婚経験なく即位した天皇です。
第45代:聖武天皇(在位:724年3月3日~749年8月19日)
「聖武天皇(しょうむてんのう)」は第45代天皇、天武天皇の男系の孫にあたる人物です。24歳で即位し、のちに孝謙天皇へ譲位しました。男性天皇として初めて譲位を行った天皇でもあります。仏教に篤く信仰しており、天皇として初めて出家しました。東大寺の大仏を造ったのも聖武天皇です。
「聖武天皇」は何した人?東大寺の大仏や平城京からの遷都も紹介
第46代:孝謙天皇(在位:749年8月19日~758年9月7日)
「孝謙天皇(こうけんてんのう)」は第46代天皇で、第45代聖武天皇の娘です。先代の聖武天皇には孝謙天皇の弟である第一皇子・基王(もといおう)がいましたが、基王が若くして亡くなっています。そのため、聖武天皇からの譲位で孝謙天皇が即位しました。
「孝謙天皇」は何した人?藤原仲麻呂との関係や重祚のいきさつも
第47代:淳仁天皇(在位:758年9月7日~764年11月6日)
「淳仁天皇(じゅんにんてんのう)」は第47代天皇です。「孝謙天皇」からの譲位を受けて即位した天皇で、明治時代に「淳仁天皇」の名がつくまでは、「廃帝」「淡路廃帝」と呼ばれてきました。これはある理由から、廃位・島流しにあったことに由来します。
「淳仁天皇」と孝謙天皇・藤原仲麻呂の関係は?即位から退位まで
第48代:称徳天皇(在位:764年11月6日~770年8月28日)
「称徳天皇(しょうとくてんのう)」は第48代天皇で、第46代孝謙天皇と同一人物の女帝です。当時、軍事力を強めていた藤原仲麻呂が起こしたクーデター「藤原仲麻呂の乱」を沈め、藤原仲麻呂の勢力を一掃。称徳天皇として再び天皇に即位しました。
平安時代の天皇とは?
第50代:桓武天皇(在位:781年4月30日~806年4月9日)
「桓武天皇(かんむてんのう)」は第50代天皇です。先代の第49代光仁天皇の息子であり、父から譲位される形で「桓武天皇」として即位しました。
桓武天皇といえば「なくよウグイス平安京」が有名です。794年に都を平安京に移していますが、それ以前に奈良から長岡京にも遷都しました。
「桓武天皇」は何した人?遷都・蝦夷討伐など政治や家系図を解説
第52代:嵯峨天皇(在位:809年5月18日~823年5月29日)
「嵯峨天皇(さがてんのう)」は第52代天皇で、桓武天皇の第二皇子です。兄であり、先代の第51代平城天皇からの譲位を受けて即位しました。即位後には平城天皇と対立して「薬子の変」が起こりますが、嵯峨天皇の迅速な対応により平定。以降は安泰な治世を過ごしました。
「嵯峨天皇」は何をした人?源氏や空海との関係や時代背景も紹介
第56代:清和天皇(在位:858年10月7日~876年12月18日)
「清和天皇(せいわてんのう)」は第56代天皇、9歳で即位しました。実際の政治は外祖父である藤原良房が行っています。「清和天皇」は学問を好み、歴史書の編纂で功績を残しました。
「清和天皇」には19人の子がおり、第6皇子・源経基(みなもとのつねもと)が皇族を離れたことが清和源氏の起源となっています。
「清和天皇」は何した人?源氏とのつながりや桓武天皇との関係も
第59代:宇多天皇(在位:887年9月17日~897年8月4日)
「宇多天皇(うだてんのう)」は第59代天皇です。一度は皇族を離れた人物ですが、その後に皇族に復帰して天皇に即位しました。「阿衡事件」をきっかけに自ら親政を行うことを進めた天皇です。愛猫家だったことも記録に残っています。
「宇多天皇」即位のいきさつは?菅原道真や仁和寺との関係も紹介
第62代:村上天皇(在位:946年5月23日~967年7月5日)
「村上天皇」は第62代天皇です。第60代醍醐天皇の子であり、第61代朱雀天皇の弟でもあります。和歌や音楽を愛する文化人で、盛大な歌合「天徳内裏歌合(てんとくだいりのうたあわせ)」を開催しました。
「村上天皇」はどんな人?末裔やエピソードと「藤原安子」も解説
第63代:冷泉天皇(在位:967年7月5日~969年9月27日)
「冷泉天皇(れいぜんてんのう)」は第63代天皇です。第62代天皇である「村上天皇」の子で、村上天皇が崩御したことで満17歳のときに冷泉天皇となりました。皇太子時代から奇行が目立った天皇で、そのエピソードから気を病んでいたと言われています。
第65代:花山天皇(在位:984年9月24日~986年8月1日)
「花山天皇(かさんてんのう)」は第65代天皇です。冷泉天皇の第一皇子であり、生後10ヶ月足らずで皇太子となりました。先代円融天皇からの譲位を受けて、17歳で即位しました。藤原氏の勢力争いに巻き込まれた天皇ですが、退位の理由は意外にも政治とは関係のないところにあります。
第66代:一条天皇(在位:986年8月1日~1011年7月16日)
「一条天皇」は第66代天皇です。第64代の円融天皇の子であり、先代の花山天皇が出家したことを受けて7歳で即位しました。一条天皇の時代は平安女流文学が最も栄えた時期です。清少納言と紫式部は、それぞれ一条天皇の妻に仕えていました。
第72代:白河天皇(在位:1073年1月18日~1087年1月3日)
「白河天皇(しらかわてんのう)」は第72代天皇です。在位中は親政を目指して荘園の整理を行っていました。後継者問題への懸念から、1086年に「白河天皇」は「白河上皇」となり、院政を開始しました。
「白河天皇」は何した人?院政開始のいきさつと平清盛との関係も
第77代:後白河天皇(1155年8月23日~1158年9月5日)
「後白河天皇」は第77代天皇です。「後白河上皇」「後白河法皇」とも呼ばれますが、いずれも同一人物です。約30年の長い間、院政を続けました。
第81代:安徳天皇(在位:1180年3月18日~1185年4月25日)
「安徳天皇」は第81代天皇です。わずか6歳4ヶ月のときに源平合戦の末、壇ノ浦の戦いに敗れて入水しました。その悲劇の影響か、各地で「実は生きていた」という生存説も伝わっています。
「安徳天皇」とは?「誰と入水したのか」や「生きていた伝説」も
鎌倉・安土桃山・江戸時代の天皇とは?
第87代:四条天皇(在位:1232年11月17日~1242年2月10日)
「四条天皇(しじょうてんのう)」は鎌倉時代の第87代天皇です。わずか2歳(数え年)で即位したため、父の後堀河上皇が院政を行いました。12歳という若さで崩御してしまい、その死因はあるイタズラによるものだと記録されています。
第106代:正親町天皇(在位:1557年11月17日~1586年12月17日)
「正親町天皇(おおぎまちてんのう)」は戦国・安土桃山時代の第106代天皇です。名前の「正親町」とは京都の地名が由来になっています。天皇や公家たちが貧窮した時代で、その立て直しを行ったのが織田信長です。
「正親町天皇」とはどんな人?本能寺の変や信長・秀吉との関係も
第108代:後水尾天皇(在位:1611年5月9日~1629年12月22日)
「後水尾天皇(ごみずのおてんのう)」は江戸時代の第108代天皇です。51年にわたり上皇として院政を敷いた人物でもあります。江戸幕府からの厳しい規制に対して、様々な抵抗を試みました。
第119代:光格天皇(在位:1780年1月1日~1817年5月7日)
「光格天皇」は江戸時代の第119代天皇です。直系ではなく9歳と幼い即位ではありますが、勉強熱心で博識多才だったことが語られています。天明の大飢饉の際には、当時「禁中並公家諸法度」によって幕府への直訴は禁じられていたにもかかわらず、民衆救済を申し入れました。
「光格天皇」の即位の経緯とは?尊号一件など出来事から人柄まで
まとめ
日本の歴代天皇から抜粋してご紹介しました。各記事ではそれぞれの天皇に関して、即位の経緯や略歴、実績などをわかりやすく解説しています。ぜひ日本の歴史を知る参考資料としてチェックしてみてください。